であるから、表向きはどうしても彼の負けである。安倍晴明六代の孫は祖先を恥ずかしめたのである。彼は謹《つつし》んで罪を待つよりほかはなかった。弟子も無論に師匠と共に謹慎していた。泰親は自分の居間に閉じ籠ったままで、誰とも口をきかなかった。
その明くる日は晴れていたが、きのうの雨に洗われた大空は、俄に一里も高くなって、その高い空から秋らしい風がそよそよと吹きおろしてきた。縁に近い梧《きり》の葉が一、二枚、音もなしに寂しく落ちるのを、泰親はじっと眺めていると、千枝太郎はぬき足をして燈台をそっと運んで来た。きょうももういつの間にか暮れかかっていた。
「千枝太郎、きょうは朝から誰も見えぬか」
「誰も見えませぬ」
「関白殿よりお使いもないか」
「はい」
千枝太郎は伏し目になって師匠の顔色をうかがうと、燈台の灯に照らされた泰親の顔は水のように蒼かった。
「大切の祈祷を仕損じた泰親じゃ。重ければ流罪《るざい》、軽くとも家《いえ》の職を奪わるる。その御沙汰がきょうにもあるべき筈じゃに、今になんのお使いもないは……」と、泰親は頭《かしら》をかたむけた。「人は何ともいえ、雨乞いの勝ち負けなど論にも及ばぬ。ただ無念なは我が秘法の敢《あ》えなくも破れたことじゃ。七十日の祈りもしっかい空《くう》となって、悪魔が調伏の壇にのぼって勝鬨《かちどき》をあぐるとは、しょせん泰親の法もすたった。上《かみ》に申し訳がない、先祖に申し訳がない。左大臣殿や少納言殿にも申し訳がない。この上はただ慎《つつし》んで罪を待つよりほかはないのじゃが、いかに思い返しても唯このままに手をつかねて、悪魔の暴《あら》ぶるをおめおめ見物するのは、国のため、世のため、人のため、なんぼう忍ばれぬことじゃ。泰親を卑怯と思うな。未練と思うな。泰親の命は疾《と》くに投げ出してある。しかしもう七十日無事でいて、命のあらんかぎり二度の祈祷をしてみたい。就いては千枝太郎、折り入って頼みたいことがある。頼まれてくれぬか」
師匠の眼の底には強い決心の光りがひらめいていた。千枝太郎はその光りに打たれたように頭を下げた。
「いかようのお役目でも、わたくしきっと承りまする」
「まずは過分《かぶん》じゃ。幸いに日も暮れた。いま一※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、165−10]ほどしたら屋敷をぬけ出して、少納言殿屋敷までそっと走ってくりゃれ」
千枝太郎は心得顔にうなずくと、泰親はさらに声を忍ばせて言った。その用向きはほかでもない、信西入道の袖にすがって更に七十日の猶予を頼もうとするのである。家の職を奪われ、あるいは遠流《おんる》の身となっては、再び悪魔調伏の祈祷を試むる便宜《よすが》もない。関白殿からなんの沙汰もないうちに、なんとかして自分の罪を申しなだめて、二度の祈祷を試むるだけの期間をあたえて貰いたい。その七十日を過ぎてもやはり効験《しるし》がなかったらば、流罪はおろか、死罪獄門も厭わない。勿論、それは信西入道の一存で取り計らうわけにもいくまいが、入道から更に左大臣頼長に訴えて、この願意を聞き済ましてくれるように何分尽力して貰いたい。自分は謹慎の身の上でみだりに門外へ出ることが出来ないから、おまえが今夜忍んでこの使いを果たしてくれというのであった。
千枝太郎は即座に承知した。
「委細心得ました。仰せの通りに仕まつりまする」
彼は立派に受け合って師匠の前を退がった。一度の祈祷を仕損じても、さらに二度の祈祷を心がける師匠の強い決心に、千枝太郎は感激した。もう一つには、数《かず》ある弟子たちのうちでこの大切の使いを自分に頼まれたということが、彼に取っては一生の面目のようにも思われた。たとい信西入道がなんと言おうとも、かならず取りすがってこの役目を果たして来なければならないと、彼ははりつめた心持で夜の来るのを待っていた。
都の寺《てら》でらの鐘が戌《いぬ》の刻(午後八時)を告げるのを待ち侘びて、千枝太郎は土御門《つちみかど》の屋敷を忍んで出ると、八月九日の月は霜を置いたように彼の袖を白く照らした。
「千枝太郎どの。千枝ま[#「ま」に傍点]」
柳のかげから女の声がきこえた。それは彼が信西入道の屋敷の前まで行き着いた時であった。その声には確かに聞き覚えがあるので、彼は大地に釘づけになったように一旦は立ちすくんだが、聞かない顔をして一生懸命に歩き出そうとすると、その直衣《のうし》の袂はいつか白い手に掴まれていた。
「千枝太郎どの、なぜ逃げる。つれない人じゃ」
「いや、わしは急ぎの用がある」
振り切ろうとしても玉藻は放さなかった。
「なんの用かは知らぬが、お前たちは慎みの身の上じゃ。勝手に夜歩きなどしても苦しゅうないか」
千枝太郎は行き詰まった。勿論、まだ表向きには謹慎も蟄居も申し渡されてはいないのであるが、この場合に謹慎は当然のことである。その身の上で勝手に夜歩きをする。ひとに見咎められては申し訳がない。彼もしばらく黙って突っ立っていた。
「それ、お見やれ」と、玉藻はほほえんだ。「おまえは今夜このお屋敷へなにしに参られた。お師匠さまのお使いか」
千枝太郎はやはり黙っていた。
「ほほ、言わいでも大抵知れている。そう思うて、わたしはさっきからここにお前を待っていた。一度は首尾して逢うてくれと、このあいだもあれほど頼んだに、お前はきょうまで素知らぬ顔をしている。それほどにわたしが憎いか。但しはお師匠さまと同じように、あくまでもわたしを魔性の者のように疑うているのか。お師匠さまはともあれ、山科の里で子供のときから一緒に育ったお前が、なんでわたしを疑うぞ。論より証拠はきのうの祈祷《いのり》じゃ。お前たちもお師匠さまと一つになって、悪魔調伏の祈祷をせられたが、あっぱれその効験《しるし》が見えましたか。もともと悪魔でもないわたしを百日千日祈ればとて呪えばとて、なんのしるしがあるものか、積もって見ても知らるることじゃ。関白殿は殊のほかの御立腹で、泰親はいうに及ばず、祈祷の壇にのぼった者は、一人も残さずに遠い鬼界ケ島《きかいがしま》へ流せと仰せられたを、わたしが縋ってなだめ申したは、お前という者がいとしいからじゃ。お師匠さまはわたしに取っては仇じゃが、そのお弟子のお前はいとしい。あけても暮れても硫黄《いおう》の煙りを噴くという怖ろしい鬼界ケ島、そのような処へお前をやらりょうか。のう、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしがこれほどの心づくしを、お前は哀れとも思わぬか、嬉しいとも思わぬか。ほんにほんに、むごい人、つれない人、憎い人、わたしは口惜しゅうて涙も出ぬ。察してくだされ」
彼女は千枝太郎の胸に顔をすり付けて、遣《や》る瀬ないように身もだえして泣いた。男は女を抱《かか》えたままで、明るい月の下に黙って立っていた。
関白殿から今までなんの沙汰もなかったのは、玉藻が内からさえぎっていたのであることを、千枝太郎は今初めて覚った。名を聞くさえも恐ろしい鬼界ケ島へ遠流――年の若い彼はさすがにぞっとした。それを救われたのは玉藻の情けであることを考えると、千枝太郎も情《すげ》なく彼女を突き放すことも出来なくなった。
玉藻は果たして魔性の女であろうか――この疑いが又もや彼の胸に芽をふいた。彼はもとより師匠を信じていた。しかも玉藻のいう通り、彼女が果たして魔性の者であるならば、日本一というお師匠さまが七十日の間も肝胆を砕いた必死の祈祷に、その正体をあらわさぬということはあるまい。彼女は恐るる色もなしに調伏の壇に登ったのである。それを悪魔の勝利と見るのが正しいのであろうか。あるいは悪魔でもない者を悪魔として無益の祈祷をつづけていたこちらの眼違いであろうか。こう思うと、彼の胸は急に暗闇《くらやみ》になった。彼は自分の抱えている女を、どう処置していいか判らなくなってきた。
「お前はまだわたしを疑うているのか。いや、お前ばかりでなく、お師匠さまもきっとわたしを疑うているに相違あるまい。播磨守殿は情のこわい人と聞く。おそらくこれには懲りもせで、二度の祈祷など巧《たく》まるることであろう。二度が三度でもわたしは厭わぬが、そのような罪をかさねて、身の行く末は何となることやら、思いやるだに悼ましい。お師匠さまが大事じゃと思うなら、お前からよく意見して、もうさっぱりと思い切らせてはどうであろう。それともお前までがいつまでもお師匠さまの味方して、わたしを悪魔と呪う気か」
玉藻は男の腕に手をかけて、怨めしそうに彼をみあげた。その眼には白い露がきらきらと光っていた。
三
いかに玉藻に口説かれても、千枝太郎は師匠の使命を果たさなければならない破目《はめ》になっていた。無益の祈祷を幾たびもつづけて、罪に罪をかさねるのは悼ましいことの限りであるが、今更そんな諫言を肯《き》くようなお師匠さまでないことは、彼にもよく判っていた。諫言を肯かないばかりでなく、あるいは心の弱い者として自分に勘当を申し渡されるかもしれない。千枝太郎はそれも怖ろしかった。
第一の問題は、玉藻が果たして魔性の者であるか無いかということで、それを確かに見きわめた上でなければ、あとへもさきへも踏み出すことが出来ないのであるが、今の千枝太郎は不幸にして、それを見定めるだけの大きい強い眼をもっていなかった。彼は師匠を信じながらも、師匠を疑おうとした。玉藻を疑っていながらも、玉藻を信じようとした。こうした悲しい矛盾に責められて、彼はもう自分の立ち場が判らなくなってきた。
相手もその苦しみを察しているらしく、眼をふさぎながら徐《しず》かに言った。
「お前の切《せつ》ない破目もわたしはよく察している。二度の祈祷をするもせぬも、しょせんはお師匠さまの心ひとつじゃ。又それを仕損じて、どのような怖ろしい罪科に陥ちようとも、しょせんはお師匠さまの自業自得《じごうじとく》じゃ。わたしはお前のお師匠さまに恨みこそあれ、恩もない、義理もない、由縁《ゆかり》もない。あの人がどうなろうとも構わぬが、唯くれぐれも案じらるるはお前のことじゃ。おまえはそもそもお師匠さまが大切か、わたしがいとしいか、それを聞きたい。お前の性根《しょうね》を確かに知りたい。それを正直に言うてくだされ」
その正直な返事をすることが、千枝太郎に取っては一生に一度の難儀であった。彼は自分自身にもそれが確かに判っていないのである。玉藻はしばらくその返事をうかがっていたが、相手は唯うつむいて土に映る二人の黒い影を眺めているばかりであるので、彼女はやがて低い溜息をつきながら言った。
「お前はどうでもお師匠さまの味方と見た。この上はもうなんにも言うまい。お師匠さまと一つになって、わたしを祈るとも呪うとも勝手にしなされ。じゃが、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしはあくまでもお前をいとしいものに思うている。お師匠さまにどのような禍いが降りかかっても、お前ばかりはきっと助けたいと念じている。それだけのことはよく覚えていてくだされ」
こう言い切って、彼女は明るい月をみあげた。きのうの稲妻に照らされた悽愴《ものすご》い顔とは違って、今夜の月を浴びた彼女の清らかな神々《こうごう》しいおもてには、月の精が宿っているかとも思われた。千枝太郎に師匠を疑う心がまた起こった。しかも別れてゆく女をさすがに抑留《ひきと》める気にもなれなかったので、彼はなんだか残り惜しいような心持でそのうしろ影を見送っていたが、やがて思い切って信西の屋敷の門をくぐった時には、彼の両袖は夜露にしっとりとしめっていた。
信西入道はすぐに逢ってくれた。千枝太郎が師匠の口上を取次ぐと、信西は案外にこころよく承知した。
「おお、さもあろうよ。一度は仕損じても、身命をなげうって二度の祈祷を心がくる――泰親としてはさもあるべきことじゃ。信西もそうありたいと願うていた。左大臣殿もおそらく同じ心であろう。あすにも直ぐに宇治へまいって、播磨守の願意は確かにそれがしが取次いでやる。さものうてもこのたびの仕損じに就いて、播磨守一人に罪を負わすは我々も甚だ快《こころよ》うないことじゃで、
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