身は途中で誰に行き逢うた」
千枝太郎はぎょっとした。しかも何事にも見透しの眼を持っている、神のような師匠の前で、彼はいつわりを言うべきすべを知らなかった。彼は河原で玉藻の藻《みくず》に偶然出逢ったことを正直に白状すると、泰親は低い溜息をついた。
「わしもそう見た。お身は再び怪異《あやかし》に憑かれたぞ。心《こころ》せい」
言い知れない恐怖におそわれて、千枝太郎は息をつめて身を固くしていると、泰親はあわれむように、また諭《さと》すように言い聞かせた。
「お身はあやかしに一度|憑《つ》かれて、危うく命を亡《うしな》おうとしたことを今も忘れはせまい。その後は一心に修業を積んで、年こそ若けれ、ゆくゆくは泰親の一の弟子とも頼もしゅう思うていたに、きょうは俄にお身の相好《そうごう》が変わって見ゆる。みだりに嚇《おど》かすと思うなよ。お身のおもてには死の相がありありと現われているとは知らぬか。お身をいとしいと思えばこそ、泰親かねて存ずる旨をひそかに言うて聞かすが、誓って他言無用じゃぞ」
くれぐれも念を押しておいて、泰親は日ごろ自分の胸にたくわえている一種の秘密を打ち明けた。それはかの玉藻の身の上であった。泰親はさきに山科の玉藻の住家を凶宅とうらなって、それからだんだん注意していると、玉藻という艶女《たおやめ》は形こそ美しい人間であれ、その魂には怖ろしいあやかしが宿っている。悪魔が彼女の体内に隠れ棲んでいる。それを知らずに、関白殿は彼女を身近う召し出されて、並なみならぬ寵愛を加えられている。その禍いが関白殿の一身一家にとどまれば未《ま》だしものことであるが、悪魔の望みは更にそれよりも大きい。それからそれへと禍いの種をまき散らして、やがてはこの日本を魔界の暗黒に堕《おと》そうと企てているのである。――こう話してきて、泰親は一段とその声をおごそかにした。
「お身に心せいというのはこのことじゃ。広い都にかの女性《にょしょう》を唯者《ただもの》でないと覚っているものは、この泰親のほかにまだ一人ある。それは少納言の信西入道殿じゃ。かの御仁《ごじん》も天文人相に詳しいので、とかくに彼女《かれ》を疑うて、さきの日わしに行き逢うた折りにもひそかに囁かれたことがある。関白殿はもうかれに魂を奪われていれば、とても一応や二応の御意見で肯《き》かりょうとも思われぬが、唯ひとつの頼みは弟御の左大臣殿じゃ。信西入道からかの殿に申し勧めて、玉藻をまず関白殿の屋形から遠ざけ、さてその上で悪魔調伏の秘法を行ない、とこしえに禍いの種を八万奈落の底に封じ籠めてしまわねばならぬ。その折柄《おりから》にお身がうかうかと再びその悪魔に近づいて、なにかの秘密を覚られたら我われの苦心も水の泡じゃ。悪魔は人間よりも賢い。それと覚ったら又どのような手だてをめぐらそうも知れぬ。きょうは自然のめぐりあいで、まことに余儀ない破目《はめ》であるが、これを機縁に再び彼女《かれ》と親しゅうするなど夢にもならぬことじゃと思え。この教えに背いたらお身の命はかならず亡ぶる。きっと忘れまいぞ」
「ありがたい御教訓、胆《きも》にこたえて決して忘れませぬ」と、千枝太郎は尊い師匠の前で立派に誓った。
「わかったかな」と、泰親はまだ危ぶむような眼をしていた。
「判りました」
半分は夢のような心持で、千枝太郎は師匠の前を退がった。自分の部屋へ戻って、彼は机の前に坐ったが、あまりに思いも付かない話をだしぬけに聴かされたので、彼の頭は恐怖と驚異とに混乱してしまった。あの可愛らしい藻、あの美しい玉藻、それに怖ろしい悪魔のたましいが宿っているなどとは、どう考えても信じられない不思議であった。いかに神のようなお師匠さまの眼にも何かの陰翳《くもり》が懸かっているのではあるまいかと、彼も一度は疑った。
しかし、だんだん考え詰めているうちに、いろいろの記憶が彼の胸によみがえってきた。藻はゆくえをくらまして、昔から祟りがあると伝えられている古塚の下に眠っていたこともある。陶器師の婆の話によれば、藻は白い髑髏《されこうべ》をひたいにかざして暗い川端に立っていたこともあるという。しかもそれを話した婆は、やはり古塚のほとりで怪しい死に方をしていた。またそればかりでない。近い頃にも関白殿の花の宴《うたげ》に、玉藻のからだから不思議の光りを放って暗い夜を照らしたという噂もある。それやこれやを取り集めて考えると、玉藻が普通の人間ではないらしいという判断も、決して拠りどころのない空想ではなかった。
「かりにもお師匠さまを疑うたのはわしの迷いであった。玉藻は悪魔じゃ。いつぞやの夢に見た天竺、唐土の魔女もやはり玉藻の化身《けしん》に相違あるまい」
そう気がつくと、千枝太郎は急に身の毛がよだつほどに怖ろしくなった。彼は屋敷に召し使われている女子《おなご》から鏡を借りて来て、自分の顔をつくづくと映してみた。彼は幾たびか眼を据えて透かして視たが、自分の若々しい顔の上から死相を見いだすことは出来なかった。かれは溜息と共に鏡を投げ出した。
「陰陽師、身の上知らずとはこれじゃ」
それにつけても師の泰親は万人にすぐれて偉い、尊い人であると、彼は今更のように感心した。信西入道も偉いと思った。彼は自分の学問未熟を恥ずると共に、師匠や信西を尊敬するの念がいよいよ深くなった。こうした尊い師匠に救われて、親しくその教えをうけているおのれは、いかに幸いであるかということも、しみじみと考えさせられた。
「なんでもお師匠さまのお指図通りにすればよいのじゃ」と、今の彼はこう素直に考えるよりほかはなかった。
実をいえば、さっき河原で玉藻に別れるときに、女はそこへ来あわせた若い公家《くげ》の手前を憚って、口ではなんにも言わなかったが、その美しい眼が明らかに語っていた。それは近いうちに又逢おうという心であることを千枝太郎は早くも覚った。彼もおなじ心を眼で答えて別れた。しかし今となっては、もうそんなことを考えるさえも怖ろしかった。自分はその一刹那から再び怪異《あやかし》に憑かれたのであった。彼はこれから一七日《いちしちにち》の間、斎戒《さいかい》して妖邪の気を払わなければならないと思った。
自分にはお師匠さまという者が付いている――こう思うと、彼は又俄に心強くもなった。未熟な自分の力ではとてもその妖魔に打ち勝つことは覚束ないが、お師匠さまの力を仮りればかならず打ち勝つことが出来る。お師匠さまもまたそれに苦心していられるのであるから、及ばずながらも自分はお師匠さまに力を添えて、ともどもに悪魔調伏に一心を凝らさなければならない。悪魔がほろぶれば自分ひとりの命が救われるなどという小さい事ではない、この日本の国を魔界の暗闇から救うことも出来るのである。彼は一生の勇気を一度に振るい起こして、悪魔と向かい合って闘わなければならないと、強い、強い、健気《けなげ》な雄々しい決心をかためた。彼はその夜の更けるまで机に正しく坐って、一心不乱に安倍晴明以来の伝書の巻を読んだ。
それから十日《とおか》ほど経って、泰親は外から帰ってくると、そっと千枝太郎を奥へ呼んだ。
「法性寺の阿闍梨も気が狂うたそうな」
阿闍梨もという言葉に深い意味が含まれているらしく聞こえたので、千枝太郎は又ぞっとして師匠の顔をみあげると、泰親はさらに説明した。
「思うても怖ろしいことじゃ。お身が河原で玉藻にめぐり逢うたのは、彼女《かれ》が法性寺詣での戻り路であった。左少弁兼輔の案内で、阿闍梨は玉藻に面会せられた。それから後は何とやらん様子が変わって、よそ目には物に憑かれたとも、物に狂うたとも見ゆるとやら。余人はその子細を覚らいで、ただただ不思議のことのように驚き怪しんでいるが、泰親の観るところでは、これもかの悪魔のなす業《わざ》じゃ。まず日本の仏法を亡ぼさんがために碩学高徳の聖僧《ひじり》の魂に食い入って、その道念を掻き乱そうと企てたのであろう。それを知らいで、うかうかとかれの手引きをした左少弁殿も、その行く末はどうあろうのう」
さきの日、河原で出逢った若い公家が左少弁兼輔であることを、千枝太郎は初めて知った。その当時、彼は一種の妬みの眼を以《も》ってその人を見ていたのであるが、今となっては、彼は憫《あわ》れみの眼を以ってその人を見なければならないようになった。
「しかし、恐るるには及ばぬ。泰親はよい時に生まれあわせた。わしの力で悪魔を取り鎮めて、世の暗闇を救うことが出来れば、末代までも家の誉《ほま》れじゃ」
泰親は、力強い声で言った。
二
「阿闍梨も気が狂うたそうな」
丁度それと同じ頃に、おなじ詞《ことば》が関白の屋形にある玉藻の口からも洩れた。彼女は兼輔の文《ふみ》によってそれを知ったらしく、その文を繰り返して見入っていた。文は阿闍梨の病気のことを報らせて、自分は今夜その見舞いに法性寺へ参ろうと思うが、お身も一緒にまいらぬかという誘いの文句であった。
阿闍梨と兼輔とは叔父甥の親しい仲である。それが唯ならぬ病いに悩んでいると聞いたらば、何を差しおいても直ぐに見舞うべき筈であるのに、わざわざ女子《おなご》を誘ってゆく。しかも夜を択んでゆく。兼輔の本心が叔父の病気見舞いでないことは見え透いていたが、玉藻は躊躇せずに承知の返事をかいた。しかし若い男がたびたび誘いに来られては、主人の手前、余人の思惑、自分もまことに心苦しいから、四条の河原で待ち合わせてくれと言ってやった。
日の暮れるのを待って、玉藻は屋形を忍んで出た。暦はもう卯月《うづき》に入って、昼間から雨気《あまけ》を含んだ暗い宵であった。その昔、一条戻り橋にあらわれたという鬼女《きじょ》のように、彼女は薄絹の被衣《かつぎ》を眉深《まぶか》にかぶって、屋形の四足門からまだ半町とは踏み出さないうちに、暗い木の蔭から一人の大きい男が衝《つ》と出て来て、渡辺の綱のように彼女の腕をしっかりと掴んだ。
「あれ」
振り放そうともがいても、男はなかなかその手をゆるめなかった。彼は小声に力をこめて言った。
「騒がれな、玉藻の前。暗うても声に覚えがござろう。われらは実雅じゃ」
「おお。少将どのか」と、玉藻はほっとしたらしかった。「わたくしは又、鬼か盗人かと思うて……」
「その鬼よりも怖ろしいかもしれぬぞ」と、実雅は暗いなかであざ笑った。「お身はこの宵にどこへ参らるる」
玉藻は立ちすくんで黙っていた。
「法性寺詣でか、兼輔と連れ舞うて……。はは、何をおどろく。お身たちのすること為《な》すこと、この実雅の耳へはみな筒抜けじゃ。われらが今宵、大納言|師道《もろみち》卿の屋形へ歌物語を聴きにまいろうと存じて、四条のほとりへ来かかると、兼輔めが人待ち顔にたたずんでいる。何してじゃと問えば、これから法性寺へ叔父御の見舞いにゆくという。その慌てた口ぶりがどうやら胡乱《うろん》に思われたので、五、六間も行き過ぎて又見返ると、彼はまだ行きもやらじに立ち明かしている。さてはここに連れの人を待ち合わせているのかと思うと、すぐに覚ったは玉藻の御《ご》、お身のことじゃ。それから足を早めてここの門前へ来て、さっきから出入りを窺うていたとは知らぬか。さあ真っ直ぐに言え、白状せられい」と、実雅ははずむらしい息を努めて押し鎮めて、女の細い腕を揺すぶりながら訊いた。
「そう知られては隠しても詮《せん》ないこと。まこと今宵は左少弁殿と言いあわせて、法性寺詣でに忍び出たに相違ござりませぬ」
「むむ。相違ないか」と、大きいからだをふるわせて実雅は唸った。「お身は先月も兼輔めと連れ立って法性寺へまいったというが、確かにそうか」
それも嘘ではないと玉藻は答えた。しかしそれは隆秀阿闍梨の教化をうけたいために兼輔の案内を頼んだので、ほかには別に子細はないと言ったが、実雅は素直にそれは肯《き》き入れなかった。現にこのあいだの花の宴《うたげ》にも、自分は彼と玉藻との密会を遠目に見ている。今更そんなあさはかな拵え事で、自分を欺くことはできまいと又あざ笑った。
「就《つ》いては、少将実雅があらためてお身に訊き
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