孝行なそなたが夜ごとの清水詣で、止めても止まるまいと思うて、心のままにさせて置くが、これからの夜はだんだん寒くなる。露も深くなる。風邪ひかぬように気をつけてくれよ。夏から秋、秋から冬の変わり目はとかく病人の身体にようないものじゃ。いっそ冬になり切ってしもうたら、おれも起きられるようになろうも知れぬ。あまり案じてたもるなよ。おれの手足がすこやかになったら、太刀の柄《つか》巻きしても、雀弓《すずめゆみ》の矢を矧《は》いでも、親子ふたりの口すぎには事欠くまい。はは、今すこしの辛抱じゃ」
「あい」
柿のこずえには大きい鴉が狡猾《こうかつ》そうな眼をひからせて、尖ったくちばしを振り立てながら枝から枝へと飛び渡っていたが、藻はもう手をあげて追おうともしなかった。彼女は父の前に手をついて、おとなしくうつむいていた。くずれかかった竹縁の下では昼でもこおろぎが鳴いていた。
父の行綱は今こそこんなにやつれ果てているが、七年前は坂部庄司蔵人行綱《さかべのしょうじくらんどゆきつな》と呼ばれて、院の北面《ほくめん》を仕《つこ》うまつる武士であった。ある日のゆうぐれ、清涼殿のきざはしの下に一匹の狐があらわれたのを関白殿がごろうじて、あれ射止めよと仰せられたので、そこに居あわせた行綱はすぐに弓矢をとって追いかけたが、一の矢はあえなくも射損じた。慌てて二の矢を射出そうとすると、どうしたのか弓弦《ゆづる》がふつりと切れた。狐はむろん逃げてしまった。当の獲物を射損じたばかりか、事に臨《のぞ》んで弓弦が切れたのは平生《ひごろ》の不用意も思いやらるるとあって、彼は勅勘《ちょっかん》の身となった。彼は御忠節を忘れるような人間ではなかった。武士のたしなみを怠るような男でもなかった。こうなるのも彼が一生の不運で、行綱は妻と娘とを連れて、この頃では京の田舎という山科郷《やましなごう》の片はずれに隠れて、わびしい浪人生活を送ることになった。
彼の不運を慰めるはずの妻は、それから半年あまりの後に夫と娘とを振り捨ててあの世へ行ってしまった。まだ男盛りの行綱は二度の妻を迎えようともしないで、不自由な男やもめの手ひとつで幼い娘の藻を可愛がって育てた。美しい顔をもって生まれた藻は心までが美しかった。自分にもう出世の望みのない父は、どうしても自分の後つぎに取りすがるよりほかはないので、行綱は老後の楽しい夢を胸に描きながら、ひたすらに娘の生長を待っていた。藻はことし十四になった。
その年の春に、行綱は娘を連れて清水の観音詣でに行った。その時にいわゆる三年坂でつまずいたのがもとで、彼は三月の末から病いの床に横たわる身の上になった。夏が過ぎ、秋が来ても、彼はやはり枕と薬とに親しんでいるので、孝行な藻の苦労は絶えなかった。貧と病いとにさいなまれている父を救うがために、彼女はふだんから信仰する観音さまへ三七日《さんしちにち》の夜まいりを思い立って、八月の末から夜露を踏んで毎晩清水へかよった。京も荒れて、盗賊の多いこの頃の秋の夜に、乙女《おとめ》ひとりの夜道は心もとないと父も最初はしきりにとめたが、藻はどうしても肯《き》かなかった。彼女は父の病いを癒したい一心に、おそろしい夜道を遠くかよいつづけた。
しかし一七日《いちしちにち》の後には、藻に頼もしい道連れができた。それはかの千枝松で、彼は烏帽子|折《お》りの子であった。これも早くふた親にわかれた不運な孤児《みなしご》で、やはり烏帽子折りを生業《なりわい》としている叔父叔母のところへ引き取られて、ことし十五になった。叔父の大六は店あきないをしているのでない。京伏見から大津のあたりを毎日めぐり歩いて、呼び込まれた家《うち》の烏帽子を折っているのであった。したがって家にいる日は少ないので、千枝松は叔母と二人で毎日さびしく留守番をしていた。村こそ違え、同じ山科郷に住んでいるので、彼はいつか一つ違いの藻と親しくなって、ほかの子供たちには眼をくれないで、二人はいつも仲好く遊んだ。
「藻と千枝ま[#「ま」に傍点]は女夫《めおと》じゃ」
ほかの子供たちが妬《ねた》んでからかうと、千枝松はいつでも真っ赤になって怒った。
「はて、言うものには言わして置いたがよい。わたしも父さまの病いが癒ったら、お前の叔母さまのところへ烏帽子を折り習いに行きたい」と、藻は言った。
「おお、叔母御でのうてもわしが教えてやる。横さびでも風折《かざお》りでも、わしはみんな知っている。来年になったら、わしも叔父御と連れ立ってあきないに出るのじゃ」と、千枝松は誇るように言った。
千枝松は烏帽子折りの職人になるのである。藻もその烏帽子を折り習いたいという。そこにどういう意味があるのか、確かに理解していないまでも、千枝松の若い胸には微かに触れるものがあった。彼はいよいよ藻と親しくなった
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