。その藻の父が長くわずらっているので、彼は自分の父を案じるように毎日見舞いに来た。そうして、藻が清水へ夜詣りにゆくことを一七日の後に初めて知って、彼はいつになく怨んで怒った。
「なぜわしに隠していた。幼い女ひとりが夜道《よみち》して何かのあやまちがあったらどうするぞ。わしも今夜から一緒にゆく」
 彼は叔母の許しをうけて、それから藻と毎夜一緒に連れ立って行った。強そうな顔をしていても、千枝松はまだ十五の少年である。盗賊や鬼はおろか、山犬に出逢っても果たして十分に警護の役目を勤めおおせるかどうだか、よそ目には頗《すこぶ》る不安に思われたが、藻に取っては世にも頼もしい、心《こころ》丈夫な道連れであった。彼女は千枝松が毎晩誘いに来るのを楽しんで待っていた。千枝松もきっと約束の時刻をたがえずに来て、二人は聞き覚えの普門品《ふもんぼん》を誦《ず》しながら清水へかよった。
 その藻をそそのかして、江口の遊女になれと勧めた陶器師の婆は、たとい善意にもしろ、悪意にもしろ、千枝松の眼から見れば確かに憎い仇であった。彼が口をきわめて罵るのも無理はなかった。戸をたたいて嚇《おど》した位では、なかなか腹が癒《い》えなかった。彼はその晩自分の家へ逃げて帰っても、まだ苛《いら》いらしてよく眠られなかった。よもやとは思うものの、どうも安心ができないので、彼はあくる朝、叔父があきないに出るのを見送って、すぐにとなり村の藻の家へたずねて来た。
 来ると、彼はまず隣りの陶器師の店をのぞいた。店の小さい窯《かま》の前には人の善さそうな陶器師の翁《おきな》が萎《な》えな烏帽子をかぶって、少し猫背に身をかがめて、小さい莚の上で何か壺のようなものを一心につくねていた。日よけに半分垂れたすだれの外には、自然に生えたらしい一本の野菊がひょろひょろと高く伸びて、白い秋の蝶が疲れたようにその周《まわ》りをたよたよと飛びめぐっていた。婆は奥のうす暗いところで麻を績《う》んでいた。
「爺《じい》さま。よい天気じゃな」
 千枝松はわざと声をかけると、翁は手をやすめて振り向いた。そうして、白い長い眉を皺めながらにこにこ笑った。
「おお、となり村の千枝ま[#「ま」に傍点]か。ほんによい秋日和《あきびより》じゃよ。秋も末になると、いつも雨の多いものじゃが、ことしは日和つづきで仕合わせじゃ。わしらのあきないも降ってはどうもならぬ」
「そうであろうのう」と、千枝松は翁の手に持っている壺をながめていた。婆は憎いが、この翁にむかっては彼は喧嘩を売るわけにはいかなかった。それでも彼はおどすように声をひそめて訊いた。
「この頃ここらへ天狗が出るという。ほんかな」
「なんの」と、翁はまた笑った。「ここらに住んでいる者はみんな善い人ばかりじゃ。悪い者は一人もない。天狗さまのお祟《たた》りを受けよう筈がないわ。ははははは。鬼の天狗のというても、大抵は人間のいたずらじゃ。ゆうべもわしの家の戸をたたいて、天狗じゃとおどかした奴があった」
「ほんに悪いことをする奴じゃ」と、婆も奥から声をかけた。「今度またいたずらをしおったら、すぐに追い掛けて捉《とら》まえて、あの鎌で向こう脛を薙《な》いでくるるわ」
「天狗がつかまるかな」と、千枝松はあざけるように笑った。
「はて、天狗じゃない、人間じゃというに……。和郎《わろ》もそのいたずら者を見つけたら、教えてくりゃれ」と、婆は睨むような白い眼をして言った。
 千枝松はすこし薄気味悪くなって、もしや自分のいたずらということを覚《さと》られたのではないかとも思った。しかし彼は弱味を見せまいとして、またあざ笑った。
「天狗でも人間でも、こちらで悪いことさえせにゃなんの祟りもいたずらもせまいよ」
「わしらがなんの悪いことをした」と、婆は膝を立て直した。
 おお、悪いことをした。となりの娘を遊女に売ろうとした――と、千枝松は負けずに言おうとしたが、さすがに躊躇した。
「悪いことせにゃ、それでよい。悪いことをすると、今夜にも天狗がつかみに来ようぞ」
 こう言い捨てて、彼はここの店さきをつい[#「つい」に傍点]と出ると、出逢いがしらに赤とんぼうが彼の鼻の先きをかすめて通った。彼は忌《いま》いましそうに顔を皺めながら、隣りの家の門《かど》に立つと、柿の梢がまず眼にはいった。「しッしッ」と、彼は足もとにある土くれを拾って鴉を逐った。その声を聞きつけて、藻は縁さきへ出た。
「千枝ま[#「ま」に傍点]か」
 二人はなつかしそうに向き合った。さっきの白い蝶が千枝松の裾にからんで来たらしく、二人の間にひらひらと舞った。

    三

 行綱の病気を見舞ったあとで、千枝松と藻とは手をひかれて近所の小川のふちに立った。今夜は十三夜で、月に供える薄《すすき》を刈りに出たのであった。
 幅は三|間《げん》に
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