なった藻の姿を呆れたように眺めていると、陶器師の翁も婆も眼を丸くしてすだれのあいだから窺っていた。
藻はそれらに眼もくれないように、形を正して真っ直ぐにあるいて行った。千枝松はもう堪まらなくなって声をかけた。
「藻よ。どこへ行く」
彼女は振り向きもしなかった。一種の不安と不満とが胸にみなぎってきて、千枝松は前後のかんがえもなしに女のそばへ駈け寄った。
「これ、藻。どこへゆく」と、彼はまた訊いた。
「ええ、邪魔するな。退け、のけ」
清治は扇で払いのけた。勿論、強く打つほどの気でもなかったのであろうが、手のはずみでその扇が千枝松の頬にはた[#「はた」に傍点]とあたった。かれは赫《かっ》となって思わず杖をとり直したが、清治の怖い眼に睨まれてすくんでしまった。藻は知らぬ顔をして悠々とゆき過ぎた。
塚《つか》の祟《たた》り
一
「おお、入道《にゅうどう》よ。ようぞ見えられた」
関白忠通卿はいつもの優しい笑顔を見せて、今ここへはいって来たひと癖ありそうな小作《こづく》りの痩《やせ》法師を迎えた。法師は少納言|通憲《みちのり》入道|信西《しんぜい》であった。当代無双の宏才博識として朝野《ちょうや》に尊崇されているこの古《ふる》入道に対しては、関白も相当の会釈をしなければならなかった。ことに学問を好む忠通は日頃から信西を師匠のようにも敬《うやま》っていた。
「きょうは藻という世にもめずらしい乙女がまいる筈じゃ。入道もよい折柄《おりから》にまいられた。一度対面してその鑑定をたのみ申したい」と、忠通はまた笑った。
「藻という乙女……。それは何者でござるな」と、信西もその険しい眉をやわらげてほほえんだ。
「これ見られい。この歌の詠みびとじゃ」
関白の座敷としては、割合に倹素で、忠通の座右《ざゆう》には料紙硯と少しばかりの調度が置かれてあるばかりであった。忠通は一枚の料紙をとり出して入道の前に置くと、信西はその歌を読みかえして、長い息をついた。
「なにさまよう仕《つか》まつったのう。ひとり寝の別れという難題をこれほどに詠みいだすものは、世におそらく二人とはござるまい。して、その乙女は何者でござるな。身はうき草の根をたえて、水のまにまに流れてゆく、藻とは哀れに優しい名じゃ」と、彼は再びその料紙を手にとり上げて、見とれるように眺めていた。
それがさきに勅勘を蒙った坂部庄司蔵人行綱の娘であると言い聞かされて、信西はまた眉を皺めた。彼は蔵人行綱の名を記憶していなかった。自分の記憶に残っていないくらいであるから、行綱の人物も大抵知れてあるように思われた。その行綱がこれほどの才女を生み出したというのは、世にも珍しいことである。彼もその藻という乙女をひと目見たいと思った。
「では、その乙女をきょう召されましたか」
「大納言のことばによれば、世にたぐいないかとも思わるるほどの美しい乙女じゃそうな。一度逢うて見たいと思うて、きょう呼び寄せた。もうやがて参るであろうよ」
幾分か優柔という批難こそあれ、忠通は当代の殿上人《てんじょうびと》のうちでも気品の高い、心ばえの清らかな、まことに天下の宰相《さいしょう》として恥ずかしからぬ人物であった。彼は色を好まなかった。年ももう四十に近い。美しい乙女ということばが彼の口から出ても、それが何のけしからぬ意味をも含んでいないことは相手にもよく判っていた。客もあるじも十六夜《いざよい》の月を待つような、風流なのびやかな、さりとて一種の待ちわびしいような心持で、その美しい乙女のあらわれて来るのを待っていた。
「藻が伺候つかまつりました。すぐに召されまするか」
織部清治は来客の手前を憚って、主人の顔色をうかがいながらそっと訊くと、忠通はすぐに通せと言った。やがて清治に案内されて、藻は庭さきにはいって来た。
ここは北の対屋《たいのや》の東の庭であった。午《ひる》すぎの明るい日は建物の大きい影を斜めに地に落として、その影のとどかない築山のすそには薄紅い幾株かの楓《もみじ》が低く繁って、暮れゆく秋を春日絵《かすがえ》のようにいろどっていた。藻はその背景の前に小さくうずくまって、うやうやしく土に手をついた。
「いや、苦しゅうない。これへ召しのぼせて藁蓐《わらうだ》をあたえい」と、忠通はあごで招いた。
清治は心得て、藻を縁にのぼらせた。そうして藁の円座を敷かせようとしたが、藻は辞退して板縁の上に行儀よくかしこまった。
「予は忠通じゃ。そちは前《さき》の蔵人坂部庄司の娘、藻と申すか」と、忠通は向き直って声をかけた。
「仰せの通り、坂部行綱のむすめ藻、初めてお目見得つかまつりまする」
彼女は謹んで答えると、信西も軽く会釈した。
「わしは少納言信西じゃ」
「遠慮はない。おもてをあげて見せい」
関白に再び声をかけられ
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