した威に打たれたように、大納言は無理に引き留めることも出来なかった。彼はこの美しい不思議な乙女のうしろ姿を夢のように見送っていたが、急に心づいて青侍を呼んだ。
「あの乙女のあとをつけて、いずこの何者か見とどけてまいれ」
青侍を出してやって、師道は再び料紙を手に取って眺めた。容貌《きりょう》といい、手蹟《しゅせき》といい、これほどの乙女が地下《じげ》の者の胤《たね》であろう筈がない。あるいは然るべき人の姫ともあろう者が、このようないたずらをして興《きょう》じているのか。但しは鬼か狐か狸か。彼もその判断に迷っていると、日の暮れる頃になって青侍が疲れたような顔をして戻って来た。
「殿。あの乙女の宿は知れました」
「おお、見とどけて参ったか」
「京の東、山科郷の者でござりました。あたりの者に問いましたら、父はそのむかし北面の武士で坂部庄司なにがしとか申す者じゃと教えてくれました」
「北面の武士で坂部なにがし……」と、大納言は眼をとじて考えていたが、やがて思い出したように膝を打った。「おお、それじゃ。坂部庄司蔵人行綱……確かにそれじゃ。彼は大床《おおゆか》の階段《きざはし》の下で狐を射損じたために勅勘《ちょっかん》の身となった。その後いずこに忍んでいるとも聞かなんだが、さては山科に隠れていて、藻は彼の娘であったか。親にも生まれまさった子を持って、彼はあっぱれの果報者《かほうもの》じゃ」
藻が父の名をつつんだ子細もそれで判った。勅勘の身を憚ったのである。父が教えたか、娘が自分に思いついたか、そのつつましやかな心根を大納言はゆかしくも又あわれにも思った。彼はその夜すぐに関白|忠通《ただみち》卿の屋形に伺候《しこう》して、世にめずらしい才女の現われたことを報告すると、関白もその歌を読みくだして感嘆の声をあげた。
あらためて註するまでもないが、源の俊顕《としあきら》の歿後は和歌の道もだんだん衰えてきたのを、再び昔の盛りにかえそうと努めたのは、この忠通卿である。久安《きゅうあん》百首はこの時代の産物で、男には俊成《しゅんぜい》がある。清輔《きよすけ》がある。隆季《たかすえ》がある。女には堀川がある。安芸《あき》がある。小大進《こだいしん》がある。国歌はあたかも再興の全盛時代であった。その時代の名ある歌人すらもみな詠み悩んだ「独り寝のわかれ」の難題を、名も知らぬ賤の乙女がこう易《やす》やすと詠み出したのであるから、関白や大納言が驚歎の舌をまいたのも無理はなかった。
「父は勅勘の身ともあれ、娘には子細あるまい。予が逢いたい。すぐに召せ」と、忠通は言った。
関白家のさむらい織部清治《おりべきよはる》はあくる日すぐに山科郷へゆき向かって、坂部行綱の侘び住居《ずまい》をたずねた。思いも寄らぬ使者をうけて、行綱もおどろいた。彼は娘が大納言の屋形へ推参《すいさん》したことをちっとも知らなかったのであった。その頃の女のたしなみとして、行綱は娘にも和歌を教えた。しかしそれが当代の殿上人を驚かすほどの名誉の歌人になっていようとは夢にも知らなかった。彼は驚いてまた喜んだ。彼は父に無断で大納言の屋形に推参した娘の大胆を叱るよりも、それほどの才女を我が子にもったという親の誇りに満ちていた。
「折角のお召し、身に余ってかたじけのうはござりますけれど……」
言いかけて彼はすこしためらった。貧と病いとに呪われている彼は、関白殿下の御前《ごぜん》にわが子を差し出すほどの準備がなかった。いかに磨かぬ珠だといっても、この寒空にむかって肌薄な萌黄地の小振袖一重で差し出すのは、自分の恥ばかりでない、貴人《あてびと》に対して礼儀を欠いているという懸念《けねん》もあった。使者もそれを察していた。清治は殿よりの下され物だといって、美しい染め絹の大《おお》振袖ひとかさねを行綱の前に置いた。
「重々の御恩、お礼の申し上げようもござりませぬ」
行綱はその賜わり物を押し頂いて喜んだ。使者に急《せ》き立てられて、藻はすぐに身仕度をした。門の柿の木の下には清治の供が二人控えていた。いたずら者の大鴉《おおがらす》もきょうは少し様子が違うと思ったのか、紅い柿の実を遠く眺めているばかりで迂闊に近寄って来なかった。
「御前、よろしゅうお取りなしをお願い申す」と、行綱は縁端《えんばた》までいざり出て言った。
「心得申した。いざ参られい」
藻のあとさきを囲んで、清治と下人《げにん》らが門《かど》を出ようとするところへ、千枝松が来た。彼はまだ病みあがりの蒼い顔をして、枯枝を杖にして草履をひきずりながら辿《たど》って来た。彼は藻をひと目見てあっと驚いたが、そばには立派な侍が物々しい顔をして警固しているので、彼はむやみに声をかけることも出来なかった。となりの陶器師の店の前に突っ立って、彼は見違えるように美しく
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