た。彼女は藻のような無邪気らしい乙女でなかった。しかしその顔かたちは藻とちっとも違わなかった。どう見直してもやはり藻そのままであった。
「藻よ」と、彼は声をかけて見たくなった。もしそのまわりに大勢の人の眼がなかったら、彼は大きい象の背中に飛びあがって、女の白い腕に縋《すが》り付いたかもしれなかった。しかし藻に似た女はこちらを見向きもしないで、なにか笑いながらそばの男にささやくと、男は草の葉で編んだ冠《かんむり》のようなものを傾けて高く笑った。
 空の色は火のように焼けていた。その燃えるような紅い空の下で音楽の響きが更に調子を高めると、花のかげから無数の毒蛇がつながって現われて来て、楽の音につれて一度にぬっと鎌首《かまくび》をあげた。そうしてそれがだんだんに大きい輪を作って、さながら踊りだしたように糾《よ》れたり縺《もつ》れたりして狂った。千枝松はいよいよ息をつめて眺めていると、更にひとむれの男や女がここへ追い立てられて来た。男も女も赤裸で、ふとい鉄の鎖でむごたらしくつながれていた。
 この囚人《めしうど》はおよそ十人ばかりであろう。そのあとから二、三十人の男が片袒《かたはだ》ぬぎで長い鉄の笞《むち》をふるって追い立てて来た。恐怖におののいている囚人はみな一斉に象の前にひざまずくと、女は上からみおろして冷《ひや》やかに笑った。その涼しい眼には一種の殺気を帯びて物凄かった。千枝松も身を固くして窺っていると、女は低い声で何か指図した。鉄の笞を持っていた男どもはすぐに飛びかかって、かの囚人らを片っ端から蹴倒すと、男も女も仰《のけ》ざまに横ざまに転げまわって無数の毒蛇の輪の中へ――
 もうその先きを見とどける勇気はないので、千枝松は思わず眼をふさいで逃げ出した。そのうしろには藻に似た女の華やかな笑い声ばかりが高くきこえた。千枝松は夢のように駈けてゆくと、誰か知らないがその肩を叩く者があった。はっとおびえて眼をあくと、高い棕梠《しゅろ》の葉の下に一人の老僧が立っていた。
「お前はあの象の上に乗っている白い女を識《し》っているのか」
 あまりに怖ろしいので、千枝松は識らないと答えた。老僧は静かに言った。
「それを識ったらお前も命はないと思え。ここは天竺という国で、女と一緒に象に乗っている男は斑足太子《はんそくたいし》というのじゃ。女の名は華陽《かよう》夫人、よく覚えておけ。あの女は世にたぐいなく美しゅう見えるが、あれは人間ではない。十万年に一度あらわるる怖ろしい化生《けしょう》の者じゃ。この天竺の仏法をほろぼして、大千《だいせん》世界を魔界の暗闇に堕《おと》そうと企《くわだ》つる悪魔の精じゃ。まずその手始めとして斑足太子をたぶらかし、天地|開闢《かいびゃく》以来ほとんどそのためしを聞かぬ悪虐をほしいままにしている。今お前が見せられたのはその百分の一にも足らぬ。現にきのうは一日のうちに千人の首を斬って、大きい首塚を建てた。しかし彼女《かれ》が神通自在でも、邪は正にかたぬ。まして天竺は仏の国じゃ。やがて仏法の威徳によって悪魔のほろぶる時節は来る。決して恐るることはない。しかし、いつまでもここに永居《ながい》してはお前のためにならぬ。早く行け。早う帰れ」
 僧は千枝松の手を取って門の外へ押しやると、くろがねの大きい扉《とびら》は音もなしに閉じてしまった。千枝松は魂が抜けたように唯うっとりと突《つ》っ立っていた。しかし幾らかんがえ直しても、かの華陽夫人とかいう美しい女は、自分と仲の好い藻に相違ないらしく思われた。化生の者でもよい。悪魔の精でも構わない。もう一度かの花園へ入り込んで、白い象の上に乗っている白い女の顔をよそながら見たいと思った。
 彼はくろがねの扉を力まかせに叩いた。拳《こぶし》の骨は砕けるように痛んで、彼ははっと眼をさました。しかし彼はこのおそろしい夢の記憶を繰《く》り返すには余りに頭が疲れていた。彼は枕に顔を押し付けてまたすやすやと眠ってしまった。

    二

 第二の夢の世界は、前の天竺よりはずっと北へ偏寄《かたよ》っているらしく、大陸の寒い風にまき上げられる一面の砂煙りが、うす暗い空をさらに黄色く陰《くも》らせていた。宏大な宮殿がその渦巻く砂のなかに高くそびえていた。
 宮殿は南にむかって建てられているらしく、上がり口には高い階段《きざはし》があって、階段の上にも下にも白い石だたみを敷きつめて、上には錦の大きい帳《とばり》を垂れていた。ところどころに朱く塗った太い円い柱が立っていて、柱には鳳凰《ほうおう》や龍や虎のたぐいが金や銀や朱や碧や紫やいろいろの濃い彩色《さいしき》を施して、生きたもののようにあざやかに彫《ほ》られてあった。折りまわした長い欄干《てすり》は珠《たま》のように光っていた。千枝松はぬき足をして高い階段の下に
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