いて、しかもその尾は九つに裂けていたそうな」
 四十前後の旅びとは額《ひたい》を皺めて怖ろしそうに語った。それを黙って聴いている若い旅びとは千枝太郎であった。それを語っている旅びとは陸奥《みちのく》から戻って来た金売《かねう》りの商人《あきうど》であった。大きい利根川の水もこの頃は冬に痩せて、限りもない河原の石が青い空の下に白く光っていた。ふたりの旅人はその石に腰をかけて、白昼《まひる》の暖かい日影を背に負いながら並び合っていた。
「それほどの狐であったら、容易に狩り出されそうもないものじゃに……」と、千枝太郎は独り言のように言った。
「なんでも七日あまりはその隠れ場所も知れなんだが、朝から折りおりに陰って大きい霰が降って来た日の午《ひる》過ぎじゃ」と、金売りの商人は語りつづけた。「どこからとも知れずに一本の白い幣束《へいそく》が宙を飛んで来て、薄《すすき》むらの深いところに落ちたかと思うと、人も馬も吹き倒すような怖ろしい風がどっと吹き出して、その薄むらの奥からかの狐があらわれた。それを三浦と上総の両介どのが追いすがって、犬追《いぬお》う物《もの》のようにして射倒されたということじゃが、その執念は怖ろしい。その弓に射られて倒れたかと思うと、その狐の形はたちまちに大きい石になったそうな」
「石になった」と、千枝太郎は眼をみはった。
「おお、不思議な形の石になった」と、旅商人はうなずいた。「いや、そればかりでない。その石のほとりに近寄るものは忽ちに眼が眩《ま》うて倒れる。獣もすぐに斃《たお》れる。空飛ぶ鳥ですらも、その上を通れば死んで落つる」
「それは定《じょう》か。まことの事か」
「なんでいつわりを言おうぞ。わしはあの地を通り過ぎて、土地の人から詳しゅう聞いて来たのじゃ。石は殺生石《せっしょうせき》と恐れられて、誰も近寄ろうとはせぬほどに、そのあたりには人の死屍《しかばね》や、獣《けもの》の骨や鳥の翅《つばさ》や、それがうず高く積み重なって、まるで怖ろしい墓場の有様じゃという。お身も陸奥へ旅するならば、心して那須野ケ原を通られい。忘れてもその殺生石のほとりへ近寄ってはならぬぞ」
「そのような怖ろしい話はわしも初めて聞いた」と、千枝太郎は深い考えに沈みながら言った。「では、その石に魂が残っているのかのう」
「おそろしい執念が宿っているのじゃ。どの人も皆そう言うている。旅に馴れたわしですらもその話を聞くと身の毛がよだって、わき眼も振らずに駈けぬけて通って来た。お身たちは年が若いで、物珍しさにその殺生石のそばへなど迂闊に近寄ろうも知れぬが、それは命が二つある人のすることじゃ。わしの意見を忘れまいぞ」
 その親切な意見も耳に沁みないように、千枝太郎は大きい眼をかがやかして川むこうの空を眺めていた。師匠の泰親が見透した通り、彼は都の屋敷をぬけ出して、この東国まで遥々とさまよい下ったのであった。なんのためにここまでたずねて来たか。彼は玉藻が魔女であることをよく知っていた。彼はもうそれを疑う余地はなかった。異国から飛び渡った金毛九尾の悪獣が藻という乙女のからだを仮りて、世に禍いをなそうとしたのを、師匠の泰親に祈り伏せられて、三浦と上総とに射留められたのである。それをいっさい承知していながらも、彼はやはり昔の藻が恋しかった。今の玉藻が慕わしかった。
 魔女でもよい。悪獣でもよい。せめて死に場所を一度たずねてみたい。――こうした思いに堪え切れないで、彼は師匠の家をとうとう迷い出た。寂しいひとり旅の日数も積もって、茅萱《ちかや》の繁った武蔵の里をゆき尽くして、利根の河原にたどり着いたときに、彼は陸奥から帰る金売りの商人《あきうど》に遇って那須野の怪しい物語を聞かされたのであった。しかし彼の心はその奇怪に驚かされるよりも、むしろ一種の心強い感じに支配されていた。玉藻はむなしくほろび失せても、その魂は石に宿って生けるように残っている。それが事実である以上、彼は果てしも知れない那須野ケ原にさまよって、そことも分からない玉藻の死に場所をあさり歩くには及ばない。彼女の魂のありかは確かにそこと見きわめられたのである。千枝太郎はわざわざたずねて来た甲斐があったように嬉しく感じた。
「いろいろのお心添え、かたじけのうござった」
 彼はここで都へ帰る商人にわかれた。そうして再び北へむかって急いで行った。それから幾日の後に野州の土を踏んで、土地の人にきいてみると、殺生石のうわさは嘘でなかった。彼はわざと真夜中を選んで、那須野の奥へ忍んで行った。
 十一月なかばの夜も更けて、見果てもない那須の篠原には雪のように深い霜がおりていた。物凄いほど高く冴え渡った冬の月が、その霜に埋められた枯れすすきを無数の折れた剣《つるぎ》のようにきらめかせているばかりで、そこには鳥の啼く声も
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