うとう清水までひと息にゆき着いたが、堂の前にも小さい女の拝んでいるうしろ姿はみえなかった。念のために伸びあがって覗くと、うす暗い堂の奥には黄色い灯が微かにゆらめいて、堂守《どうもり》の老僧が居睡りをしていた。千枝松は僧をよび起こして、たった今ここへ十四、五の娘が参詣に来なかったかと訊いた。
 僧は耳が疎《うと》いらしい。幾度も聞き直した上で笑いながら言った。
「日が暮れてから誰が拝みに来ようぞ。この頃は世のなかが閙《さわ》がしいでな」
 半分聞かないで、千枝松は引っ返してまた駈け出した。言い知れない不安が胸いっぱいに湧いてきて、彼は夢中で坂を駈け降りた。往くも復《かえ》るもひとすじ道であるから、途中で行き違いになろう筈はない。こう思うと、彼の不安はいよいよ募ってきた。彼はもう堪《た》まらなくなって、大きい声で女の名を呼びながら駈けた。
「藻よ。藻よ」
 彼の足音に驚かされたのか、路ばたの梢から寝鳥《ねとり》が二、三羽ばたばたと飛び立った。人間の声はどこからも響いてこなかった。夢中で駈けつづけて、長い田圃路《たんぼみち》の真ん中まで来た時には、彼の足もさすがに疲れてすくんで、もう倒れそうになってきたので、彼は路ばたの地蔵尊《じぞうそん》の前にべったり坐って、大きい息をしばらく吐いていた。そうして、見るともなしに見あげると、澄んだ大空には月のひかりが皎々《こうこう》と冴えて、見渡すかぎりの広い田畑も薄黒い森も、そのあいだにまばらに見える人家の低い屋根も、霜の光りとでもいいそうな銀色の靄《もや》の下に包まれていた。汗の乾かない襟のあたりには夜の寒さが水のように沁みてきた。
 狐の啼く声が遠くきこえた。
「狐にだまされたのかな」と、千枝松はかんがえた。さもなければ盗人《ぬすびと》にさらわれたのである。藻のような美しい乙女《おとめ》が日暮れて一人歩きをするというのは、自分から求めて盗人の網に入るようなものである。千枝松はぞっとした。
 狐か、盗人か、千枝松もその判断に迷っているうちに、ふとかの陶器師のことが胸に泛《う》かんできた。あの婆め、とうとう藻をそそのかして江口《えぐち》とやらへ誘い出したのではあるまいかと、彼は急に跳《おど》りあがって又一散に駈け出した。藻の門《かど》の柿の木を見た頃には、彼はもう疲れて歩かれなくなった。
「藻よ。戻ったか」
 垣の外から声をかけると、今度はすぐに行綱の返事がきこえた。今夜は娘の帰りが遅いので、自分も案じている。おまえは途中で逢わなかったかと言った。千枝松は自分も逢わなかったと口早に答えて、すぐに隣りの陶器師の戸をあらく叩いた。
「また天狗のいたずら者が来おったそうな」
 内では翁《おきな》の笑う声がきこえた。千枝松は急《せ》いて呶鳴った。
「天狗でない。千枝ま[#「ま」に傍点]じゃ」
「千枝ま[#「ま」に傍点]が今頃なにしに来た」と、今度は婆が叱るように訊いた。
「婆に逢いたい。あけてくれ」
「日が暮れてからうるさい。用があるならあす出直して来やれ」
 千枝松はいよいよ焦《じ》れた。彼は返事の代りに表の戸を力まかせに続けて叩いた。
「ええ、そうぞうしい和郎《わろ》じゃ」
 口小言《くちこごと》をいいながら婆は起きて来て、明るい月のまえに寝ぼけた顔を突き出すと、待ち構えていた千枝松は蝗《いなご》のように飛びかかって婆の胸倉を引っ掴んだ。
「言え。となりの藻をどこへやった」
「なんの、阿呆らしい。藻の詮議なら隣りへ行きゃれ。ここへ来るのは門《かど》ちがいじゃ」
「いや、おのれが知っている筈じゃ。やい、婆め。おのれは藻をそそのかして江口の遊女に売ったであろうが……。まっすぐに言え」と、千枝松は掴んだ手に力をこめて強く小突《こづ》いた。
「ええ、おのれ途方もない言いがかりをしおる。ゆうべのいたずらも大方おのれであろう。爺さま、早う来てこやつを挫《ひし》いでくだされ」と、婆はよろめきながら哮《たけ》った。
 翁も寝床から這《は》い出して来た。熱い息をふいて哮り立っている二人を引き分けて、だんだんにその話をきくと、彼も長い眉を子細らしく皺めた。
「こりゃおかしい。ふだんから孝行者の藻が親を捨てて姿を隠そう筈がない。こりゃ大方は盗人か狐のわざじゃ。盗人ではそこらにうかうかしていようとも思えぬが、狐ならばその巣を食っているところも大方は知れている。千枝ま[#「ま」に傍点]よ、わしと一緒に来やれ」
「よさっしゃれ」と、婆は例の白い眼をして言った。「子供じゃと思うても、藻ももう十四じゃ。どんな狐が付いていようも知れぬ。正直にそこらを探し廻って骨折り損じゃあるまいか」
 千枝松はまたむっとした。しかしここで争っているのは無益だと賢くも思い直して、彼は無理無体に翁を表へ引っ張り出した。
「爺さま。狐の穴はどこじゃ」

前へ 次へ
全72ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング