治もそのままでは捨て置かれないので、主人のもとへ引っ返して行ってその次第をささやくと、忠通も眉を寄せた。
「ついぞないこと。どうしたものじゃ」
彼は席を起って清治と一緒に玉藻の隠れ場所をたずねると、彼女は奥まった亭の薄暗いなかに俯伏しているのを発見した。
「心地がようないと聞いたが、どうじゃな」と、忠通は立ち寄って、彼女の肩越しにうしろから覗こうとして驚いた。玉藻は床に顔をおしつけるばかり身を投げ伏して、嗚咽《おえつ》の声をもらしているのであった。清治も驚いた。主《しゅう》と家来とは顔をみあわせて暫く黙っていた。
「はは、こりゃ誰やらになぶられたな」と、忠通はほほえんだ。
昼からの饗宴で、ひとも我もみな酔うている。花と酒とに浮かされた若公家ばらのうちには、たそがれの薄暗がりにまぎれて彼女の袂《たもと》をひいた者もあろう、彼女の黒髪をなぶった者もあろう。それがけしからぬいたずらとしても、楚王《そおう》が纓《えい》を絶った故事も思いあわされて、きょうの場合には主人の忠通もそれを深く咎めたくなかった。清治もそこに気がつくと、今までの不安は一度に消えて、これもにやにやと笑い出した。
「なんの、珍しゅうもない。そんなことを一いち詮議立てしたら、今夜はそこらに幾人の科人《とがにん》ができようも知れぬ」と、平安朝時代の家人《けにん》は肚《はら》のなかで呟いた。
唐土の桃李園の風流になぞらえて、きょうは燭をとって夜も遊ぶというかねての計画であるので、どの座敷でも燈火《ともしび》が昼のようにともされた。春の一日をたわむれ暮らしても、まだ歓楽の興をむさぼり足らない人びとは、酔いくずれて眠りこけるか、疲れ切って倒れるか、それまでは夜を昼についで浮かれ狂うつもりであろう。朗詠《ろうえい》や催馬楽《さいばら》の濁った声もきこえた。若い女の華やかな笑い声もひびいた。その騒がしい春の夜のなま暖かい空気のなかに、桜の花ばかりは黙って静かに散った。
「さあ、来やれ。そちがおらいでは座敷がさびしい。玉藻の前はきょうの団欒《まどい》の花じゃと皆も言うている。夜の灯に照り映えたら、その美しい顔が一段と光りかがやいて見えようぞ。来やれ、来やれ。あの賑わしい方へ……」
手を取らぬばかりに引き立てられて、玉藻は泣き顔をおさえながら立ち上がった。忠通と清治とはその前後を囲んで、うす暗い渡り廊を静かにあゆん
前へ
次へ
全143ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング