帰りの遅いのは判り切っているので、千枝太郎は彼の戻って来るまで山科へ一度帰りたいと思った。
「ゆうべ出たぎりで、叔父や叔母も定めて案じておりましょう。昼のうちに立ち帰って、この次第を語り聞かせとう存じまするが……」と、彼は師匠の前に出て願った。
「もっとものことじゃ。叔父叔母にもよう断わってまいれ」
師匠の許しをうけて、千枝太郎は土御門の屋敷を出た。その途中で彼は又、あらぬ迷いが湧いて来た。自分もいったんはそう疑い、師匠は確かにそう言い切ったのであるが、車のぬしは果たしてかの玉藻であろうか。自分の見た女の顔はどうも衣笠に似ているらしく、殊にその身内からはなんの光りも放っていなかった。勿論、この場合には、自分の目よりも師匠の明らかな眼を信じなければならないと思いながらも、彼はまだ消えやらない疑いを解くために、その足を七条の方角へ向けた。
三浦の屋敷へ行って、家来に逢ってきくと、やはりきのうと同じ返事で、その後なんにも変わったことはないと言った。
「娘御はゆうべ何処《いずこ》へかお忍びではござりませぬか」と、千枝太郎はそれとなく探りを入れてみた。
「なんの、お慎みの折柄じゃ。まして夜陰《やいん》にどこへお越しなさりょうぞ」と、家来は初めから問題にもしないように答えた。
これを聞いて千枝太郎も安心した。もう疑うまでもない。車のぬしを衣笠と見たのは自分の僻目《ひがめ》で、彼女はやはり玉藻であったに相違ない。それにしては、わらわに恋するなど及ばぬこと――この一句の意味がよく判らなかった。玉藻は自分の方から一度首尾して逢うてくれとたびたび迫り寄って来るのでないか。それがまことの恋であるかないかは別問題として、思い切らねば命を取るとまで言い放すのは余りにおそろしい。千枝太郎はいろいろにその問題をかんがえた。
三浦の屋敷にあらわれた怪しい上臈は、衣笠にむかって早く故郷へ帰れと言った。ゆうべの怪しい女は、自分にむかって恋を思い切れと言った。それとこれを綴りあわせて考えると、玉藻は自分の心が衣笠の方へひかれていくのを妬んで、いろいろの手だてを以って彼女を嚇《おど》し、あわせて自分を嚇そうとするのであろう。ゆうべも衣笠の姿を自分に見せて、衣笠の口真似をして自分を嚇したのであろう。
こうだんだんに煎じつめて来ると、玉藻はどう考えても魔性の者である。もう寸分も疑う余地はないのである
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