今度はすぐに行綱の返事がきこえた。今夜は娘の帰りが遅いので、自分も案じている。おまえは途中で逢わなかったかと言った。千枝松は自分も逢わなかったと口早に答えて、すぐに隣りの陶器師の戸をあらく叩いた。
「また天狗のいたずら者が来おったそうな」
 内では翁《おきな》の笑う声がきこえた。千枝松は急《せ》いて呶鳴った。
「天狗でない。千枝ま[#「ま」に傍点]じゃ」
「千枝ま[#「ま」に傍点]が今頃なにしに来た」と、今度は婆が叱るように訊いた。
「婆に逢いたい。あけてくれ」
「日が暮れてからうるさい。用があるならあす出直して来やれ」
 千枝松はいよいよ焦《じ》れた。彼は返事の代りに表の戸を力まかせに続けて叩いた。
「ええ、そうぞうしい和郎《わろ》じゃ」
 口小言《くちこごと》をいいながら婆は起きて来て、明るい月のまえに寝ぼけた顔を突き出すと、待ち構えていた千枝松は蝗《いなご》のように飛びかかって婆の胸倉を引っ掴んだ。
「言え。となりの藻をどこへやった」
「なんの、阿呆らしい。藻の詮議なら隣りへ行きゃれ。ここへ来るのは門《かど》ちがいじゃ」
「いや、おのれが知っている筈じゃ。やい、婆め。おのれは藻をそそのかして江口の遊女に売ったであろうが……。まっすぐに言え」と、千枝松は掴んだ手に力をこめて強く小突《こづ》いた。
「ええ、おのれ途方もない言いがかりをしおる。ゆうべのいたずらも大方おのれであろう。爺さま、早う来てこやつを挫《ひし》いでくだされ」と、婆はよろめきながら哮《たけ》った。
 翁も寝床から這《は》い出して来た。熱い息をふいて哮り立っている二人を引き分けて、だんだんにその話をきくと、彼も長い眉を子細らしく皺めた。
「こりゃおかしい。ふだんから孝行者の藻が親を捨てて姿を隠そう筈がない。こりゃ大方は盗人か狐のわざじゃ。盗人ではそこらにうかうかしていようとも思えぬが、狐ならばその巣を食っているところも大方は知れている。千枝ま[#「ま」に傍点]よ、わしと一緒に来やれ」
「よさっしゃれ」と、婆は例の白い眼をして言った。「子供じゃと思うても、藻ももう十四じゃ。どんな狐が付いていようも知れぬ。正直にそこらを探し廻って骨折り損じゃあるまいか」
 千枝松はまたむっとした。しかしここで争っているのは無益だと賢くも思い直して、彼は無理無体に翁を表へ引っ張り出した。
「爺さま。狐の穴はどこじゃ」

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