さるると、御歌所《おうたどころ》の大納言のもとから御沙汰があったそうな。そこで叔父御が言わしゃるには、おれも長年烏帽子こそ折れ、腰折れすらも得《え》詠《よ》まれぬは何《なん》ぼう無念じゃ。こういう折りによい歌作って差し上げたら、一生安楽に過ごされようものをと、笑いながらも悔んでいられた」
「ほう、そんなことは初めて聞いた」と、藻も眉をよせた。「なるほど、独り寝の別れ、こりゃおかしい。どんな名人上手でも、世にためしのないことは詠まれまい。ほんに晦日《みそか》の月というのと同じことじゃ」
「水の底で火を焚くというのと同じことじゃ」
「木にのぼって魚を捕るというのと同じことじゃ」
二人は顔をみあわせて、子供らしく一度に笑い出した。その笑い声を打ち消すように、どこやらの寺の鐘が秋の空に高くひびいてうなり出した。
「おお、もう午《ひる》じゃ」
藻がまずおどろいて起《た》った。千枝松もつづいて起った。二人は慌ててそこらの薄を折り取って、ひとたばずつ手に持って帰った。千枝松は藻と門《かど》で別れる時にまた訊いた。
「けさは隣りの婆が見えなんだか」
藻は誰も来ないと言った。それでもまだなんだか不安なので、千枝松は帰るときに陶器師の店を又のぞくと、翁はさっきと同じところに屈《かが》んで、同じような姿勢で一心に壺をつくねていた。婆の姿は見えなかった。
風のない秋の日は静かに暮れて、薄い夕霧が山科《やましな》の村々に低く迷ったかと思うと、それが又だんだんに明るく晴れて、千枝松がゆうべ褒めたような冴えた月が、今夜もつめたい白い影を高く浮かべた。藻が門《かど》の柿の葉は霜が降ったように白く光っていた。
「藻よ。今夜はすこし遅うなった。堪忍しや」
千枝松は息を切って駈けて来て、垣の外から声をかけたが内にはなんの返事もなかった。彼は急いで二、三度呼びつづけると、ようように行綱の返事がきこえた。藻は小半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、22−12]《こはんとき》も前に家を出たというのであった。
「ほう、おくれた」
千枝松はすぐにまた駈け出した。その頃の山科から清水へかよう路には田畑が多いので、明るい月の下に五|町《ちょう》八町はひと目に見渡されたが、そこには藻はおろか、野良犬一匹のさまよう影も見えなかった。千枝松はいよいよ急《せ》いてまっしぐらに駈けた。駈けて、駈けて、と
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