こに倒れていた。玉藻の口には生《なま》なましい血が染みていた。もうこうなると、相手の玉藻はまさに鬼女である。清治はすぐに太刀に手をかけたが、その手はしびれて働かなかった。
 玉藻はその冷艶なおもてに物凄い笑みを洩らした。怪しい光りは再び消えて、暗いなかで男の唸る声がきこえた。
「望みを遂ぐる時節も近づいたと思うたら、丁度幸い男と女の生贄《いけにえ》を手に入れた」
 男の唸り声も玉藻の声もそれぎりで聞こえなくなった。
 夜があけてから、清治と女の童との浅ましい亡骸《なきがら》が古池の水に浮かんでいるのを見いだされた。しかも二人がどうしてこんな無惨な死にざまをしたのか、誰にも判らなかった。
 兼輔の死に次いで、こんな奇怪な事件が再び出来《しゅったい》したので、忠通の神経はいよいよ傷つけられた。殊に今度はそれが自分の屋形の内に起こったので、彼は言い知れない恐怖と不安とに囚われた。彼は三度の食事すらも快く喉へは通らないようになってきた。
 それから四日ほど過ぎて、大納言師道が来た。彼の報告はさらに忠通の心を狂わせる種であった。玉藻を采女に申し勧める一条は、果たして左大臣頼長から強硬なる抗議が出た。信西入道も反対であった。彼らの反対は師道も内々予期していたので、[#底本では読点が句点]彼もなんとかしてその敵を押し伏せようと試みたが、何をいうにも正面の敵は頼長である。しかも博学宏才の信西入道がその加勢に付いているので、師道はとても彼らと対抗することは出来なかった。結局さんざんに言いまくられて、彼は面目を失って退出した。
「彼らは何故《なにゆえ》ならぬという。素性が卑しいと申すのか」と、忠通は唇を咬みながら訊いた。
「いや、そればかりではござりませぬ。玉藻という女性《にょしょう》に就いては落意しがたき廉々《かどかど》があるとか申されまして……」と、師道もすこしあいまいに答えた。「あのような女性を召されては天下《てんが》の乱れにもなろうと信西入道が申されました」
「なんの、天下の乱れ……。おのれらこそこの忠通を押し倒して、天下を乱そうと巧《たく》んでいるのじゃ」
 忠通は拳《こぶし》を握って、跳り上がらんばかりに無念の身をもだえた。

    二

 師道が早々に帰ったあとで、忠通はすぐに玉藻を呼んだ。彼は燃えるような息を吐きながら、今聞いた顛末《てんまつ》を物語った。
「もう堪忍
前へ 次へ
全143ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング