して故障をいうべきようもなかった。まして、自分は年来その恩顧《おんこ》を受けている。玉藻を彼に推薦したのも自分である。これらの関係上、師道はどうしてもこの頼みを断わるわけにはいかない破目になっているので、彼はやはり素直に承知した。
「御懇《ぎょこん》の御意《ぎょい》、委細心得申した。あすにも参内《さんだい》して、万事よろしゅう執奏《しっそう》の儀を……」
「おお、取り計ろうてたもるか」と、忠通は子供のように身体をゆすって喜んだ。
 いろいろの打ち合わせをして、師道はやがて関白の前をさがると、入れ代って玉藻が召し出された。忠通は笑《え》ましげに彼女に言い聞かせた。
「万事は大納言が受け合うてくれた。心安う思え」
「ありがとうござりまする」と、玉藻も晴れやかな眼をして会釈した。
 雨はその日の夕方からひとしきり降りやんで、鼠色の雲が一枚ずつ剥《は》げてゆくように明るくなった。その明るい大空の上には赤い星が三つ四つ光っていた。この時代の習いで、亥《い》の刻頃(午後十時)には広い屋形の内もみな寝静まって、庭の植え込みでは時どきに若葉のしずくのこぼれ落ちる音がきこえた。今夜は蛙も鳴かなかった。
 女《め》の童《わらわ》の小雪というのが眼をさまして厠《かわや》へ立った。彼女は紙燭《しそく》をともして長い廊下を伝ってゆくと、紙燭の火は風もないのにふっと消えた。それと同時に暗い行く手に明るい光りが浮き出して、七、八|間《けん》ほど先きを静かに動いてゆくのを見たので、年の若い小雪はぎょっとして立ちすくんだ。光りのぬしは女であった。女は長い袴の裳《すそ》をひいて、廊下を静かに歩んでゆく。そのうしろ姿が玉藻によく似ていると思ううちに、廊下の隅にある一枚の雨戸が音もなしにするりと明いて、女の姿は消えるように庭へぬけ出した。小雪は一種の好奇心にうながされて、これも足音をぬすんでそのあとからそっと庭に降り立つと、玉藻に似た姿は植え込みの間をくぐって行って、奥庭の大きい池の汀《みぎわ》にすっくと立った。
 池は年を経て、その水は蒼黒く淀んでいるのが、この頃の雨に嵩《かさ》を増して、濁った暗い色が汀までひたひたと押し寄せていた。あやめや、かきつばたはその濁った波に沈んで、わずかに藻《も》の花だけが薄白く浮かんでいるのが、星明かりにぼんやりと見えた。女はまず北に向かって一つの大きい星を拝した。ほかの
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