「そうであろうのう」と、千枝松は翁の手に持っている壺をながめていた。婆は憎いが、この翁にむかっては彼は喧嘩を売るわけにはいかなかった。それでも彼はおどすように声をひそめて訊いた。
「この頃ここらへ天狗が出るという。ほんかな」
「なんの」と、翁はまた笑った。「ここらに住んでいる者はみんな善い人ばかりじゃ。悪い者は一人もない。天狗さまのお祟《たた》りを受けよう筈がないわ。ははははは。鬼の天狗のというても、大抵は人間のいたずらじゃ。ゆうべもわしの家の戸をたたいて、天狗じゃとおどかした奴があった」
「ほんに悪いことをする奴じゃ」と、婆も奥から声をかけた。「今度またいたずらをしおったら、すぐに追い掛けて捉《とら》まえて、あの鎌で向こう脛を薙《な》いでくるるわ」
「天狗がつかまるかな」と、千枝松はあざけるように笑った。
「はて、天狗じゃない、人間じゃというに……。和郎《わろ》もそのいたずら者を見つけたら、教えてくりゃれ」と、婆は睨むような白い眼をして言った。
 千枝松はすこし薄気味悪くなって、もしや自分のいたずらということを覚《さと》られたのではないかとも思った。しかし彼は弱味を見せまいとして、またあざ笑った。
「天狗でも人間でも、こちらで悪いことさえせにゃなんの祟りもいたずらもせまいよ」
「わしらがなんの悪いことをした」と、婆は膝を立て直した。
 おお、悪いことをした。となりの娘を遊女に売ろうとした――と、千枝松は負けずに言おうとしたが、さすがに躊躇した。
「悪いことせにゃ、それでよい。悪いことをすると、今夜にも天狗がつかみに来ようぞ」
 こう言い捨てて、彼はここの店さきをつい[#「つい」に傍点]と出ると、出逢いがしらに赤とんぼうが彼の鼻の先きをかすめて通った。彼は忌《いま》いましそうに顔を皺めながら、隣りの家の門《かど》に立つと、柿の梢がまず眼にはいった。「しッしッ」と、彼は足もとにある土くれを拾って鴉を逐った。その声を聞きつけて、藻は縁さきへ出た。
「千枝ま[#「ま」に傍点]か」
 二人はなつかしそうに向き合った。さっきの白い蝶が千枝松の裾にからんで来たらしく、二人の間にひらひらと舞った。

    三

 行綱の病気を見舞ったあとで、千枝松と藻とは手をひかれて近所の小川のふちに立った。今夜は十三夜で、月に供える薄《すすき》を刈りに出たのであった。
 幅は三|間《げん》に
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