三度して、弓をかたえの壁に立て、更に太刀をぬきてすかし視る。)
青年 この剣《つるぎ》で蛇の頭を切るのです。
翁 おお、なるほど。これもよく切れそうな刀だ。
青年 この通りにとぎ澄ましてあります。
嫗 憎い蛇めをずたずたに切ってやりたいものだ。
(青年は太刀を鞘に収める。雨の音いよいよ烈し。)
翁 雨がだんだんに強くなって来たぞ。
嫗 内も外も暗くなって来た。
娘 風も少し吹き出したとみえて、草や木がざわざわ鳴っています。
青年 怪しい物の出そうな晩ですな。
(人々は顔を見あわせて、ようやく不安の念に襲わる。)
娘 もうやがて鐘がきこえるでしょう。
翁 むむ。
(人々は息をのんで待つ。やがて酉の刻の鐘きこゆ。)
嫗 おお、鐘が鳴った。
青年 鐘が鳴りました。
(鐘の音つづいてきこゆ。娘は思わず母にすがる。嫗は娘を抱きよせて、あたりに眼を配る。翁は入口の門をしかとしめて錠をおろす。)
翁 こうして置けば大丈夫だ。いや、まだ裏口が不安心だ。
(翁はあわてて奥へ走り入る。)
嫗 (声を低める。)蛇はいよいよ来るでしょうか。
青年 来るでしょう。しかし御安心なさい。
嫗 大丈夫でしょうか。
青年 大丈夫です。
(翁は再び奥よりいず。)
翁 もう何処もかしこもすっかり閉めて来たから、大丈夫だ。家には鼠が潜り込むほどの隙間もないぞ。
(雨風の音きこゆ。娘は物におそわれたように叫ぶ。)
娘 あれ、あれ、門《かど》に……。
嫗 (怖るおそる門をのぞく。)いや、外は真闇で、雨が降っているばかりだ。誰も来やあしない。
娘 でも、なんだか跫《あし》音が……。
嫗 しっかりおしよ。怖くはないよ。
青年 わたしがここにいます。
(しばしの沈黙。やがて一種の音して、青年《わかもの》の張りたる弓の弦は自然に切れる。人々おどろく。)
青年 や、弓の弦が切れた。
翁 あんなに太い弦が自然に切れた。
(人々は顔をみあわせてしばらく黙す。)
青年 どうも不思議なことがあるものだ。(考える。)弓が役に立たなければ、これで防ぎます。
娘 (又もや叫ぶ。)あれ、あれ。
嫗 なんにも来やあしないよ。
青年 わたしはこの剣を持っています。どんな魔物でも名剣の威徳にはかないません。これをじっと見ておいでなさい。自然に気が鎮まります。
(太刀を娘の前に差付けると、太刀は鍔ぎわより自然に折れる。今度は声を出すものなく、人々はただ黙して眼を見あわせ、いよいよ恐怖の念に襲わる。)
翁 ああ、駄目だ、駄目だ。おまえさんもやっぱり駄目だ。
(青年《わかもの》は残念そうに折れたる太刀をながめて立つ。しばしの沈黙。蛇は衣冠を着け、優美なる姿にて奥よりあらわる。)
翁 ああ、婿が来た。
嫗 え。(いよいよ娘を抱きしめる。)
蛇 約束の通り、婿に来たぞ。祝言の用意は出来ているか。
(人々答えず。)
蛇 酒の用意はあるだろうな。
翁 酒は沢山にたくわえてあるから、飲みたいだけ飲んでください。ほかにも欲しいものがあるならば、なんでも上げます。
蛇 それだから娘を貰いに来たのだ。
翁 その娘だけは……。どうぞ堪忍してくださるまいか。
嫗 ほかのことなら何でもききますから、どうぞこればかりは……。この通り、拝みます。
蛇 お前達はなんにも云わぬがよい。娘はとうに承知しているのだ。
青年 いや、その娘も不承知です。
蛇 お前もだまっていろ。今更故障を云うと、お前たちの為になるまい。これ、よく見ろ。おれの大きい眼はみがいた鏡のようにかがやいている。この眼で一度睨めば大抵のものは縮んでしまうぞ。おれの口には赤い舌が火のように燃えている。この口を一度あけば大抵のものは一と息に呑んでしまうぞ。もう一度よく見ろ。おれのからだには鉄のような鱗が一面に生えている。この鱗をさか立てると大抵の矢も刀もとおすことはできないぞ。おれはこれほどの武器をもっているのだ。それを知らずに防ごうとするのは馬鹿な奴だ。
(青年《わかもの》を見てあざ笑う。青年は太刀の柄をすてて、更に弦の切れたる弓を取りしが、容易にかかり得ず、徒《いたず》らに睨みいるのみ。)
蛇 さあ、娘。こっちへ来い。
(蛇は袖をあげて差し招けば、娘は母の手を放れてふらふらと歩みゆく。蛇は娘の手を取りて奥に入る。翁と嫗とは茫然としてそのあとを見送る。)
青年 残念だが仕方がない。私にはひとを救うほどの力がないのか。
(青年《わかもの》は持ったる弓をなげ捨つ。やがて奥にて凄まじき物音きこゆ。)
翁 や、あの物音は……。
嫗 娘が長い蛇に巻かれて苦しんでいるのではあるまいか。
翁 どうかして助ける工夫は無いかなあ。
(翁と嫗とはうろうろして奥を窺ううちに、奥より蛇は髪をふり乱して走りいず。蟹は赤き甲《よろい》をつけ、かの長刀《なぎなた》を持ちて追い出ず。)
蟹 卑怯者め。逃げ
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