返されるのも自然の約束だろうよ。蛇は弁天様の使わしめだ。
嫗 そう云いながら、お前さんだって泣いているじゃあないか。
翁 さっきから泣くまいと一生懸命にこらえているのに、おまえがそばからいろいろな愚痴を云うので、おれも我慢が出来なくなって来たのだ。
嫗 やせ我慢をしないで、泣きたいだけ泣いた方がいい。子を取られて泣く親のなみだが、神様のお目にとまって、思いもよらぬ御救いがないとも限らないから……。
翁 なんの、神様も仏様もあったものじゃあない。あてにもならないことをあてにしているうちに、時は猶予なくたってゆく。酉の刻にはもう半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》もあるまいよ。
(翁はうつむきて嘆息す。嫗も泣く。奥の簾をかかげて娘いず。)
娘 おふたりともにもう泣いてくださるな。わたしは覚悟をきめています。
嫗 おお、娘……。(走り寄って娘を抱く。)おまえの覚悟は決まっても、わたし達の覚悟は容易にきまるものじゃあない。どうしても怖ろしい婿は来るかねえ。
娘 酉の刻の鐘を合図に、きっと来ると云いました。
翁 その鐘もやがて鳴るであろう。
嫗 お前は一体なぜそんな約束をしたのだ。蛇が蛙を呑むのはあたりまえのことだから、構わずに打っちゃっておけばいいのに……。
娘 あんまり可哀そうでしたから、つい助けてやる気になったのですが、今更思えばそれが悪かったのです。わたしもやっぱり蛙と同じように、弱い者であったのでした。
翁 おれも蛇よりは弱いのだ。
嫗 ここの家には蛇より強いものはひとりも居ないのだ。
娘 弱いものを救うには自分が強い者でなければならないということを、今初めてさとりました。自分をまもってゆくほどの力も無い者が、ひとを救おうとしたのはあやまりでした。もう仕方がありません。わたしは覚悟して時刻の来るのを待っていましょう。
嫗 待っていてそれからどうなるだろう。かんがえても怖ろしいことだ。
翁 むかしの稲田姫は八股《やつまた》の大蛇《おろち》に取られるところを、素盞嗚尊《すさのおのみこと》に救われたが、ここにはそんな強い男もあるまいよ。
嫗 それでもこのままに娘は渡されまい。約束の時刻になったなら、蛇がどこからもはいって来られないように、四方の戸をしっかりと閉め切って、夜の明けるまで張番をして居ようかと思うが……。
翁 でも、あしたの晩もまた来るだろう。
嫗 あしたも明後日《あさって》も、三日も五日も十《とお》日も、一と月も二た月も、毎晩強情に防いでいたら、いくら執念深い蛇でもあきらめて、しまいには来なくなるかも知れない。
翁 おまえがあきらめられぬと同じことで、むこうも容易にはあきらめまい。根《こん》くらべならやっぱり強い者の方が勝つわ。
(三人は顔を見あわせて嘆息す。里の青年《わかもの》一人、太刀をはき、弓矢をたずさえていず。)
青年 もし、もし。
翁 や、もう来たのか。
(嫗はあわてて娘を我がうしろに隠す。翁はうろうろする中に、青年《わかもの》は進み入りて顔を見合わせる。)
翁 おお、お前さんか。まあ、よかった。
青年 どうも飛んだことが出来《しゅったい》したそうですね。
嫗 では、もう知っていなさるのか。
青年 さっき娘御から聞きました。しかし御安心なさるがよろしい。その蛇が来たら私が退治してみせます。
翁 お前さんが退治してくれるか。
嫗 ほんとうに蛇を退治してくださるか。
青年 わたしが素盞嗚尊になりましょう。私にはこの弓と矢があります。
翁 おまえさんは弓が上手かね。
青年 空を飛ぶ鳥でもかならず射落します。蛇が今夜ここへ襲って来たら、まず一の矢でそのひかった眼を射透してみせます。二の矢でその咽喉を射ぬいて見せます。大丈夫だから御安心下さい。
嫗 ありがとうございます。お前さんがその弓と矢で、おそろしい蛇を退治してくだされば、娘も助かります。わたし達夫婦も助かります。娘、もう大丈夫だよ。おまえはきっと助かるから……。
娘 助かるでしょうか。
嫗 この人は強いのだよ。
娘 強いでしょうか。
青年 わたしは自分でも強いものだと信じています。
翁 お前さんはほんとうに強そうだ。やれ、やれ、これでようよう安心した。
嫗 わたしもようよう落付いた。
娘 安心ができましょうか。
翁 そんな心細いことを云うものではない。なんでも気を強くもっていろよ。
(雨の音薄くきこゆ。人々は表を窺う。)
青年 おお、雨がまた降って来た。
翁 もう日が暮れるなあ。
青年 今のうちに弓の弦《つる》でも張って置こうか。
(青年は弓の弦を張る。翁は立寄って見る。)
翁 なるほど、太い弦だ。これを強く張って矢を放したら、鉄の鎧でも射透すだろう。
嫗 いくら大きな蛇でも急所を射られてはたまるまい。
(青年はほほえみながら弦打《つるうち》二
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