お前と約束したのだ。
(娘は恐れて黙す。)
蛇 おまえの家はちゃんと知っている。今夜、酉《とり》の刻の鐘が鳴るのを合図に、おれはお前のところへ婿入りするのだ。いいか、忘れるなよ。
(云い捨てて蛇はしずかに歩み去る。娘はしばらく茫然としている。)
娘 さあ、大変なことになってしまった。あの蛇がわたしのところへ婿に来る……。まあ、どうしたらよかろう。蛇は執念が深いというから、一旦みこまれたが最後、どこまでもわたしに附きまとって来るに相違ない。あの蛇が……。あのおそろしい、いやらしい蛇がわたしのところへ婿に来る……。ええ、かんがえてもぞっとする。わたしがもっと強ければ、蛇なんか幾匹押し掛けてたって、門口《かどぐち》から追い払ってしまうのだけれども、わたしは女だ……弱い女だ。おとっさんやおっかさんも年をとっている。わたしの家には強いものは一人もないのだ。こうと知ったらあの蛙を救ってやるのではなかったものを……。ああ、わたしは飛んだことをして、飛んだものにみこまれてしまった。
(雨少しくふりいず。娘は空をあおぐ。)
娘 いつの間にか雨が降って来た。(柳にかけたる衣《きぬ》をはずす。)今夜はきっと雨が降って、暗いものすごい晩に相違ない。おそろしい蛇が……執念ぶかい蛇が……どんな姿をして来るだろう。(身をふるわせる。)ああ、どうしたらよかろう。ここで泣いていても仕様がない。ともかくも早く家へ帰って、おとっさんやおっかさんと相談するよりほかはあるまい。早くそうしましょう。
(娘は二つの衣《きぬ》をかかえ、しおしおとあゆみ去る。柳のかげより蟹いず。)
蟹 いい心持で午睡《ひるね》をしている枕もとで、泣いたり笑ったり、がやがや騒ぐので、すっかり眼がさめてしまった。あの蛙め、早くおれを呼び起せばいいのに、蛇にみこまれてふるえ上がって、もう声も出なくなったのだろう。ほんとうに弱い奴だ。(あざわらう。)しかし又、あの娘さんもあんまり無考えだな。いくら蛙が可哀そうだといって、自分も弱い女の癖に、うっかり差し出るからこんなことになるのだ。
(蛙の声きこゆ。)
蟹 蛙の奴め。自分の代りにあの美しい娘を人身御供《ひとみごくう》にして置きながら、平気で面白そうに唄っているが、娘の家では今ごろ大騒ぎをしているだろう。可哀そうなものだな。
(二)
おなじ里、漆間《うるま》の翁の宿。
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