、私が新宿の停車場附近を通ると、これから寄席へゆくと話しながら通る二人づれの女、その一人は普通の提灯を持ち、ひとりは大きい河豚《ふぐ》提灯を持っているのを見た。その頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に今昔の感に堪えない。
 今日の若い人達も薄々その噂を聞いているであろうが、その当時における女義太夫の人気は恰も今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。江戸時代の女義太夫は頗る卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売り出すようになったのは明治十八、九年頃からのことで、竹本京枝などがその先駆であったと思われる。やがて竹本綾之助が現われ、住之助が出で、高坐の上は紅紫爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]、大阪|上《のぼ》りとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった。かれらのうちには勿論老巧の上手もあったが、その大部分は若い女で、高島田に紅い花かんざしを売
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