之助)佐原の喜三郎(中村駒之助)等の役割で、通し狂言として春木座に上演された。
以上のほかにも、講談又は人情話の劇化されたものはたくさんある。ここでは最も有名な物のみを紹介したに過ぎない。劇場で講談又は人情話を上演するのは、あながちに題材に窮した為ではなく、寄席の高坐で売り込んだものを利用するという一種の興行策である。講談師や落語家も自分の読み物を上演されることを喜んだ。これも一種の宣伝になるからである。要するに、寄席と芝居と、たがいに持ちつ持たれつの関係で、高坐の話が舞台に移植されたのである。それも前に云う通り、円朝、燕枝らの死後は殆んど絶えた。
今日では寄席の高坐が映画館のスクリーンに変わって、映画のストーリーが舞台にしばしば移植されるようになった。これも時代の変化である。唯それを劇化する人々が如何なる態度を以てそれに臨むか。映画をそのままに伝えるか、あるいは自己の創意を加えるか。それに因って劇作家の価値もおのずから定まるであろう。[#地から2字上げ](昭和一〇・舞台)
附・明治時代の寄席
私は先き頃ある雑誌に円朝や燕枝のむかし話をかいた。それは特にめずらしい材料でもなかったが、それでも今の若い人たちには珍しかったと見えて、私を相当の寄席通と心得たらしく、明治時代の寄席についてしばしば問い合わせを受けることがある。そこで老人、好い気になって、もう少し寄席のおしゃべりをする。今度は円朝や燕枝の個人に就いて語るのでなく、明治時代の寄席はどんな物であったかと云うことを一般的に説明するのである。
明治といっても初期と末期との間には、著しい世態人情の相違がある。それを一と口に云い尽くすことは出来ないので、まず明治二十年前後から四十年頃までを中心として、その大略を語ることにしたい。
今日《こんにち》と違って、娯楽機関の少ない江戸以来の東京人は、芝居と寄席を普通の保養場所と心得ていた。殊に交通機関は発達せず、電車もバスも円タクも無く、わずかに下町の大通りに鉄道馬車が開通しているに過ぎない時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけには行かない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを散歩するにとどまっていた。その人々に取っては、寄席が唯一の保養場所であった。
自宅に居ても退屈、さりとて近所の家々を毎晩訪問するのも気の毒、殊に雨でも降る晩に
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