作は松林伯円の講談であるが、舞台と高坐とは大いに相違し、単に原作の人名と略筋を借りただけで、ほとんど黙阿弥の創作と云って好いほどに劇化されている。今日しばしば繰り返される大口の寮の場の如きは、たとい寺西閑心や鳥目の一角の焼き直しであろうとも、講談以外の創作であることを認めなければならない。この作がこれほど有名になったのは、新富座の初演当時、河内山宗俊(団十郎)片岡直次郎(菊五郎)金子市之丞(左団次)大口屋の三千歳(岩井半四郎)という顔ぞろいで、いずれも好評を博したと云うことも確かに一つの原因であって、もし第二流の俳優によって上演せられ、その当時さしたる評判もなくて終わったらば、おそらく舞台の上に長い生命を持続し得なかったであろう。
黙阿弥の作としては余りに高く評価すべき種類のもので無い。
落語界に於いて三遊亭円朝に対峙したのは柳亭燕枝《りゅうていえんし》である。円朝一派を三遊《さんゆう》派といい、燕枝一派を柳《やなぎ》派と称し、明治の落語界は殆んどこの二派によって占領されているような観があった。殊に燕枝は非常な好劇家で、常に団十郎の家にも出入りし、団十郎の俳名団洲に模して、みずから談洲楼と号していた。円朝は温順な人物であったが、燕枝は江戸っ子肌の暴っぽい人物で、高坐における話し口にもよくその性質をあらわしていた。好劇の結果、彼は落語家《はなしか》芝居をはじめ、各劇場で幾たびか公演して人気を取ったこともある。
燕枝も円朝と同様、文字の素養があって俳句などをも善くした。したがって、自作の続き話も多かったが、速記本などには余り多く現われていないようである。彼が得意とする人情話には、悪侍や無頼漢が活動する世界が多く、何となく円朝は上品、燕枝は下品であるかのように認められたのは、彼として一割方の損であったかも知れない。燕枝は明治三十三年二月十一日、六十八歳を以て世を去った。彼は円朝よりも五歳の兄で、円朝と同年に死んだのである。三遊派も柳派も同時にその頭領をうしなって、わが落語界も漸く不振に向かうこととなった。
燕枝の人情話の中で、彼が最も得意とするのは「嶋千鳥沖津白浪」であった。大坂屋花鳥に佐原の喜三郎を配したもので、吉原の放火や、伝馬町の女牢や、嶋破りや、人殺しや、その人物も趣向も彼に適当したものである。これは明治二十二年六月、大坂屋花鳥(坂東家橘)梅津長門(市川猿
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