吉だ。
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(お冬は思わず和吉にしがみつこうとして又躊躇し、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き伏す。その声におどろいて、和吉はあたりを見まわす。)
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和吉 おまえが怨むのはもっともだ。どんなに怨まれても仕方がない。それはわたしも覚悟している。だが、お冬どん。後生《ごしょう》だからまあわたしの云うことを聴いておくれ。こうなればみんな正直に打明けるが、わたしがそんな怖ろしい料簡をおこしたのも……。(息をはずませて。)お前が恋しいばっかりだ。
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(お冬はおどろいたように顔をあげる。)
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和吉 わたしは今まで一度も口に出したことはなかったが、とうからおまえに惚れていたのだ。どうしてもおまえと夫婦にならずには置かないと自分だけでは思いつめていたのだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向きにお嫁になると……。まあ、わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでもわたしはお前を憎いとは思わない、今でもちっとも憎いとは思っていない。(いよいよ息をはずませる。)唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍が出来ないような気になって……。わたしは気が違ったのかも知れない。今度の初午の芝居を丁度幸いに、日蔭|町《ちょう》から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間際《まぎわ》にそっと掏りかえて置くと、それがうまく行って……。それでも若旦那の勘平がほんとうに腹を切って、血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水《ひやみず》を浴びせられたようにぞっとした。それから若旦那が息をひき取るまで二日二晩のあいだ、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへいくたびに、わたしはいつでもぶるぶる顫えていた。
お冬 (怨みの声をふるわせる。)和吉さん。おまえはなんという人だろう。あんまりだ、あんまりだ。(泣く。)
和吉 さあ、腹の立つのは重々もっともだが、もう少し辛抱して聴いておくれ。恋がたきの若旦那がいなくなれば、おそかれ早かれお前はわたしの物になる。いや、きっとわたしの物にしてみせる……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまでこうして生きて来たが……。(嘆息して。)ああ、もういけない。あの岡っ引はさすがに商売で、とうとうわたしに眼をつけたらしい。
お冬 岡っ引が、もうここの店へ来たんですかえ。
和吉 大和屋の旦那と一緒に来て、酔っぱらっている振りをして、主殺しがここの店にいると大きい声で呶鳴り散らした上に、あてつけらしく磔刑《はりつけ》の講釈までして聞かせるので、わたしはもうそこに居たたまれなくなった位だ。(おびえたように左右をみかえる。)そこで、わたしはもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄附きになって出て、牢へ入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな怖ろしい目に逢わないうちに、わたしは一と思いに死んでしまう積りだ。
お冬 え。
和吉 そういうわけだから、おまえから見れば若旦那を殺した仇に相違ないが、わたしの心持もすこしは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが重々悪い。この通り、手をついて幾重にもあやまる……。その代り手前勝手の云い分かは知らないが……。(涙ぐんで。)わたしが死んだあとでは、せめてお線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。
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(お冬も泣きながら聴いていると、和吉はふところから財布を出す。)
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和吉 ここにお給金の溜めたのが、三両二分ある。これはみんなお前にあずけて行くから……。
お冬 いいえ、そんなものを貰っては困ります。
和吉 まあ、そう云わずに受取ってくれ。
お冬 でも、そんなものは……。
和吉 決して係り合いになるようなことはしないから、まあ、受取っておくれと云うのに……。
お冬 そんなことが人に知れると……。
和吉 知れないように黙っていればいいじゃあないか。
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(たがいに財布を押し遣り押し戻している時、八つ手のかげより半七が顔を出して咳払いする。和吉はおどろいて見かえれば、半七は再び隠れる。和吉はおちつかぬていにて、無理に財布をお冬に突きつけ、あわてて上のかたへ走り去る。)
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お冬 (財布を持って縁先に出る。)ああ、もし、和吉さん。和吉さん。これは持って行って下さいよ。和吉さん。
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(この時、八つ手のかげより又もや半七が姿をあらわして、再び咳払いをする。これに気がついてお冬は半七
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