下げ]
(文字清は激しい剣幕で二人を突き退けて店さきに来る。)
[#ここで字下げ終わり]
文字清 (叫ぶ。)おかみさんに逢わして下さい。
弥助 (びっくりして。)おかみさんに逢いたいと云うんですか。して、おまえさんは。
文字清 (じれる。)逢えば判るんだから、早くここへ呼んで下さいよ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(弥助は煙《けむ》にまかれて相手の顔をながめている。伝兵衛は気がついて帳場を出る。)
[#ここで字下げ終わり]
伝兵衛 (小声で。)おまえさんは下谷のお師匠《しょ》さんじゃありませんか。
文字清 そうですよ。早くおかみさんをここへ呼んで下さいよ。
伝兵衛 なにか御用ですかえ。
文字清 じれったい人だねえ。なんでもいいから逢わして下さいというのに……。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(伝兵衛も困っている。おくめは進み寄って文字清の袂をひく。)
[#ここで字下げ終わり]
おくめ お師匠さん。後生《ごしょう》だから素直に帰って下さいよ。それでないと、わたし達が困りますからさ。
文字清 わたしの方でも頼むから、まあ気の済むようにして下さいよ。(伝兵衛等に。)さあ、早く呼んで来て……。
伝兵衛 でも、むやみに逢わせることは出来ませんよ。こっちにも色々の取込みがあるので……。
文字清 どうしても逢わせないのかえ。そんなら勝手に通るから邪魔をおしでないよ。わたしはね、角太郎のかたき討に来たんだから。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(文字清は帯のあいだから紙にくるんだ剃刀《かみそり》を取り出し、逆手《さかて》に持って店へかけ上がろうとするので、伝兵衛も弥助もいよいよ驚いてうろうろする。おくめも幸次郎もおどろいて支える。)
[#ここで字下げ終わり]
おくめ まあ、お前さん。飛んでもない。そんなものを持ってどうする積りですよ。
幸次郎 どうも驚いたな。刃物三昧《はものざんまい》はあぶねえから、止しねえ、止しねえ。
文字清 ええ、放して下さいよ。
幸次郎 いけねえ、いけねえ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(文字清は哮《たけ》り狂って店へあがろうとするを、おくめと幸次郎は一生懸命にひき戻そうとして争ったが、文字清はむやみに剃刀をふりまわすので、二人も持て余して手を放せば、文字清は店へかけあがる。伝兵衛と弥助はあわてて飛び退く。この時、寝ていた半七は不意に飛び起きて、自分の羽織を取って文字清のあたまから被せて引き伏せる。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 (おくめ等に。)あれほど云って置いたのに、なんで又ここへよこしたのだ。
おくめ だって、兄さん。一旦は家へ帰って又飛び出したのよ。
幸次郎 半気違げえだから仕様がねえ。
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(文字清は羽織をかき退けて跳ね起きようとするを、半七は又おさえる。)
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半七 なるほど、こいつは始末に負えねえ。おい。番頭さん。大和屋の旦那を呼んで来てくんねえ。
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(文字清は身をもがくを、半七はおさえ付ける。)
[#ここで字下げ終わり]
(二)
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和泉屋の奥の小座敷。正面の上のかたには三尺の釣床、かけ花生けには白椿の一と枝がさしてある。それにつづいて奥へ出入りの襖。庭の上のかたには四つ目垣、蕾のふくらんだ桃の木がある。下のかたには稲荷の小さい社《やしろ》、そのそばには八つ手の葉が茂っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(座敷には屏風をうしろに立てまわして、仲ばたらきのお冬がやつれた顔をして寝床の上に起き直り、薬をのんでいる。その枕もとに和泉屋の女房おさきが同じく暗い顔をして坐っている。)
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おさき どうだえ。まだ気分はよくないかえ。
お冬 ゆうべからどうも頭《つむり》が痛んでなりません。
おさき それも無理の無いことさ。こころの疲れと、からだの疲れで、わたしでさえもがっかりして、骨も魂も抜けてしまったようだから、まして、お前は……。(云いかけて涙ぐむ。)察していますよ。
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(お冬は声を立てて泣き入る。)
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おさき ああ、そんなに泣いてはからだに悪い。もう、もう、何事も因縁ずくと、わたし達も諦められないところを無理にあきらめるから、お前もどうぞ諦めておくれよ。
お冬 わたくしはいっそ死んでしまいとうございます。(すすりあげて泣く。)
おさき それでは却って仏のためにもならない。たとい角太郎がこの世にいなくっても、一旦はここの家の嫁にと思ったお前のことだから、わたしの方でも決して
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