入口の格子がある。
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(第一幕より六日目の朝。子分の亀吉が表を掃いている。向うより半七の妹おくめが先に立っていず。おくめは神田の明神下に住む常磐津の師匠で、文字房という若い女。おくめのあとより三十七八歳の女が附いて来る。これはおなじ師匠で、下谷に住む文字清という女、色は蒼ざめ、眼は血走って、よほど取り乱したていである。)
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おくめ 亀さん、お早う。
亀吉 やあ、明神下のお師匠《しょ》さん。早いね。
おくめ かせぎ人は違うのさ。(笑う。)
亀吉 まったくだ。まあ、おはいんなせえ。(云いながら文字清をじろじろ見る。)
おくめ 兄《にい》さんは家《うち》にいるの。
亀吉 おかみさんは朝まいりに出かけたが、親分はいますよ。なに、もうとうに飯を食って、顔を洗って起きているのさ。
おくめ おまえさんの云うことは逆《さか》さまだねえ。まあ、なにしろ御免なさいよ。
亀吉 さあ、さあ、通んなせえ。(格子の内に入りて呼ぶ。)おい、おい、親分。明神下のお師匠さんが来ましたぜ。
おくめ (文字清をみかえる。)さあ、遠慮なしにおはいんなさいよ。
文字清 はい。
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(台所より女中おみのが出て、手あぶりの火鉢に火を入れたりする。おくめと文字清は内に入りて坐る。奥より廻り縁づたいに半七いず。)
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半七 やあ、大層早いな。(長火鉢の前に坐る。)おい、おみの。なんだかお連れさんがあるようだぜ。茶を入れる支度でもしろ。
おみの はい、はい。
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(おみのは手あぶりを二人の前に置いて、奥に入る。)
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おくめ 姉さんはいつも御信心ね。
半七 じゃあ、もう亀から聞いたか。きょうは十五日で深川へ朝まいりよ。時にそっちのお客様にはまだ御挨拶をしねえが、どなただね。
文字清 (すすみいず。)申しおくれて相済みません。わたくしは下谷に居ります文字清と申しますもので、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります。
半七 いえ、どう致しまして……。おくめこそ年がいきませんから、さぞ色々と御厄介になりましょう。この後《のち》も何分よろしくおねがい申します。
おくめ そこで早速ですがね。この文字清さんがお前さんに折入って頼みたいことがあると云うんですがね。
半七 むむ。そうか。(文字清に。)もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、わたしに出来そうなことだかどうだか、まあ伺って見ようじゃありませんか。
文字清 ありがとうございます。だしぬけにお邪魔に出まして、まことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押掛けに伺いましたような訳で……。お聞き及びかも知れませんが、この十日《とおか》の初午の晩に具足町の和泉屋で素人芝居がございました。そのときに和泉屋の若旦那が六段目の勘平で切腹すると、刀がいつの間にか本身に変っていたので、ほんとうに腹を切ってしまいました。
半七 それはわたしもその場に立会って知っています。和泉屋でも大騒ぎをして、医者を呼んで疵口を縫わせて、色々に手当をしたが、二日《ふつか》二晩苦しみ通して、とうとう息を引き取ったそうで、どうも可哀そうなことをしましたよ。
おくめ そのことに就いて、文字清さんが大変に口惜《くや》しがっているんですよ。
文字清 (泣き出す。)親分さん。どうぞ仇を取ってください。
半七 仇……。だれの仇を取るんだね。
文字清 わたくしの倅のかたきを……。
半七 え。(相手の顔をじっと見る。)少しわからねえな。
文字清 (物狂わしく。)わたくしはもう口惜しくって……口惜しくって……。(泣く。)
おくめ まあ、そう泣かないで、よくその訳をお話しなさいよ。
半七 唯むやみに泣いていちゃあ仕様がねえ。おまえさんの息子が一体どうしたというのだ。まあ、落ちついてはっきり云って聞かせねえ。
文字清 はい。(やはり身をふるわせて泣いている。)
半七 おい、おくめ。おまえがこの師匠を連れて来たんだから、一と通りのことは知っているだろう。師匠の息子がどんなことになったのだ。
おくめ 実はね、今云った和泉屋の若旦那はこのお師匠さんの息子さんですとさ。
半七 なに、和泉屋の若旦那はこの師匠の息子だと……。そりゃあおれも初耳だ。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあねえのか。
おくめ そうですとさ。
半七 ふむう。そうかえ。(かんがえている。)
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(亀吉は盆に茶碗を乗せて出で、おくめと文字清の前に置く
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