他人とは思いません。あとあとまでも面倒をみてあげる気でいるから、かならず弱い気を出さないで、一日も早く癒っておくれよ。旦那もしきりに心配していらっしゃるからね。
お冬 奉公人のわたくしにあんまり勿体ないことでございます。そうでなくても御苦労の多いところへ、わたくしがまた御苦労をかけましては相済まないことだと存じて居りますけれど……。(又泣く。)いくら諦めようと思いましても、それがどうにもなりません。こうして臥せって居りましても、若旦那のお顔やお姿が絶えず眼の先にちら付きまして……。
おさき それはわたし達も同じことで……。(眼をぬぐう。)あきらめると云う口の下から、未練も出る。愚痴も出る。ほんとうに情けないことだねえ。
お冬 おかみさん。わたくしはやっぱり死んだ方が優《ま》しでございます。(声を立てて泣きくずれる。)
おさき (眼をふいて。)ああ、もう止しましょう。お前をなだめる積りでいながら、わたしが一緒に泣いてしまっては何んにもならない。後生《ごしょう》だから、せめてお前だけはからだを丈夫にしておくれよ。忘れても死ぬなどという気を出してはなりませんよ。いいかえ。
お冬 はい。(泣いている。)
おさき あとで女中をよこすから、なんでも用があったら遠慮なくお頼みよ。
お冬 ありがとうございます。
おさき (いじらしそうに見て。)いいかえ。もうお泣きでないよ。風があたるからここの障子は半分閉めて置こうね。
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(おさきは縁側の障子を半分しめて奥に入る。お冬はひとりで泣きながら薬をのむ。庭口より和吉が忍んで出で、あと先を見まわしながら縁先に来る。)
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和吉 (小声で。)お冬どん、お冬どん。
お冬 誰。和吉さんかえ。
和吉 (やはり小声で。)だれもいないね。
お冬 おかみさんが出ておいでなすったけれど……。今は誰もいませんよ。
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(和吉は縁側ににじり[#「にじり」に傍点]上がり、障子をそっと明けてのぞく。)
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和吉 まだ頭が重いかえ。
お冬 いそがしい中をたびたびお見舞に来てくれて有難うございます。
和吉 大旦那やおかみさんも心配していなさるから、早く癒らないじゃあいけないぜ。
お冬 あい。
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