さい。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜《えんぎ》の悪いものは早く手放してしまいとうございます。」
その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。
二
兜の価《あたい》は幾らであったか、それは別に伝わっていないが、その以来、兜は邦原家の床の間に飾られることになって、下谷の古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。或る人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍《みょうちん》の作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘出し物をしたのを喜んだという話であるから、おそらく捨値同様に値切り倒して買入れたのであろう。
それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦しからぬ扮装《いでたち》の人物であったが、どこの何者であるか、その身許を知り得《う》るような手がかりはなかった。その噂《うわさ》を聞いて、金兵衛は邦原家の中間らにささやいた。
「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」
「お前のような唐茄子《とうなす》頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃ及ぶめえ。」と、中間らは笑った。
金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど零《こぼ》れていたという噂が伝えられた。彼は相手の兜を斬り得ないで、却って自分の刀の傷ついたのを恥じ悔《くや》んで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。
どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。
いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。
それからふた月ほどを過ぎた十月のなかばに、兜が突然に紛失したのである。それは小春日和のうららかに晴れた日の午《ひる》すぎで、当主の勘次郎は出番の日に当っているので朝から留守であった。隠居の勘十郎も牛込辺の親類をたずねて行って留守であった。兜はそのあいだに紛失したのであるから、隠居と主人の留守を窺って、何者かが盗み出したのは明白であったが、座敷の縁側にも人の足跡らしいものなどは残されていなかった。ほかにはなんにも紛失ものはなかった。賊は白昼大胆に武家屋敷の座敷へ忍び込んで、床の間に飾ってある兜ひとつを盗み出したのである。
その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間二人と下女ひとりで、中間らはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、かれらは台所で何か立ち働いていた為に、座敷の方にそんなことの起っているのを、ちっとも知らなかったというのである。
盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、その兜を見せられた者の一人が、羨《うらや》ましさの余り、欲しさの余りに悪心を起したものかとも想像されないことはないので、あれかこれかと数えてゆくと、その嫌疑《けんぎ》者が二、三人ぐらいは無いでもなかったが、別に取留めた証拠もないのに、武士に対して盗人のうたがいなどを懸けるわけにはゆかない。邦原家では自分の不注意とあきらめて、何かの証拠を見いだすまでは泣き寝入りにして置くのほかはなかった。
「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。
床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、択《よ》りに択って古びた兜ひとつを抱え出したのを見ると、最初から兜を狙って来たものであろう。まさかにかの金兵衛が取返しに来たのでもあるまい。賊はこの屋敷に出入りする侍の一人に相違ないと、勘十郎は鑑定した。勘次郎もおなじ意見であった。
それにつけても、かの兜の出所をよく取糺《とりただ》して置く必要があると思ったので、邦原家では金兵衛をよび寄せて詮議すると、金兵衛もその紛失に驚いていた。実は自分もその出所を知っていないのであるから、早速下谷の道具屋へ行って聞合せて来るといって帰ったが、その翌日の夕方に再び来て、次のようなことを報告した。
「けさ下谷へ行って聞きますと、あの兜はこ
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