寄って、うしろからその兜の天辺《てっぺん》へ斬りつけた者があった。
男はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半|町《ちょう》あまりも逃げ延びて、路ばたの小さい屋敷へかけ込んだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年《じゃくねん》で去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身《しょうしん》ではあるが、屋敷には中間《ちゅうげん》二人を召使っている。
兜をかぶった男は、大きい銀杏《いちょう》の木を目あてに、その屋敷の門前へかけて来たが、夜はもう五つ(午後八時)を過ぎているので、門は締め切ってある。その門をむやみに叩いて、中間のひとりが明けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげ込んで来て、中の口――すなわち内玄関の格子さきでぶっ倒れてしまった。
兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町《はくさんまえまち》に店を持っていて、道具屋といっても主《おも》に鎧《よろい》兜や刀剣、槍、弓の武具を取扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、頗るのんきな面白い男であるので、さのみ近しく出入りをするという程でもないが、屋敷内の人々によく識られているので、今夜彼があわただしく駈け込んで来たについて、人々もおどろいて騒いだ。
「金兵衛。どうした。」
「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで唸《うな》った。「あたまの天辺から割られました。」
「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が訊《き》いた。
「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた唸った。
水をのませて介抱して、だんだん検《あらた》めてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭は勿論、からだの内にも別に疵《きず》らしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。
「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。
「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から梨子割《なしわ》りにされたんです。」
「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」
押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が鈍《にぶ》かったのか、いずれにしても兜の鉢を撃ち割ることが出来ないで、金兵衛のあたまは無事であったという事がわかった。
「まったく一《ひと》太刀でざくりとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はほっとしたように言った。その口ぶりや顔付きがおかしいので、人々は又笑った。
それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。
金兵衛はその日、下谷御成道《したやおなりみち》の同商売の店から他の古道具類と一緒にかの兜を買取って来たのである。その店はあまり武具を扱わないので、兜は邪魔物のように店の隅に押込んであったのを、金兵衛がふと見付け出して、元値同様に引取ったが、他にもいろいろの荷物があって、その持ち抱えが不便であるので、彼は兜をかぶることにして、月の明るい夜道をたどって来ると、図《はか》らずもかの災難に出逢ったのであった。最初から辻斬りのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来ごころか、いずれにしても彼が兜をかぶっていたのが禍《わざわ》いのもとで、斬る方からいえば兜の天辺から真っ二つに斬ってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でも兜などをかぶってあるくから、そんな目にも逢うのだと、勘十郎は笑いながら叱った。
それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも恙《つつが》ないという以上、それは相当の冑師《かぶとし》の作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、燈火《あかり》の下でその兜をあらためた。
刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の鍛《きた》えも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまが穏やかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れに忙がしい時節であるので、勘十郎はその兜を買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。
「どうぞお買いくだ
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