ば》をあらためて言った。
「それでは甚だ勝手がましゅうございますが、お金の代りにおねだり申したい物がございますが……。」
「大小は格別、そめほかの物ならばなんでも望め。」
「あのお兜をいただきたいのでございます。」
言われて、勘次郎は気がついた。彼は拾って来たかの兜を縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。
「ああ、あれか。あれは途中で拾って来たのだ。」
「どこでお拾いなさいました。」
「根岸の路ばたに落ちていたのだ。どういう料簡《りょうけん》で拾って来たのか、自分にもわからない。」
かれは正直にこう言ったが、落武者の身で拾い物をして来たなどとあっては、いかにも卑しい浅ましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。
「その兜は一度わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、つい拾って来たのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。」
「ありがとうございます。」
兜は兜、金は金であるから、ぜひ受取ってくれと、勘次郎はかの小判を押付けたが、親子はどうしても受取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送って来て別れた。
上野の四方を取りまいた官軍は、三河島の口だけをあけて置いたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれて再び江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原から浅草の方へ引っ返した。それからさらに本所へまわって、自分の菩提寺《ぼだいじ》にかくれた。その以後のことはこの物語に必要はない。かれは無事に明治時代の人となって、最初は小学校の教師を勤め、さらに或る会社に転じて晩年は相当の地位に昇った。
彼がまだ小学校に勤めている当時、箕輪の円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、誰も知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産をたずさえてゆくと、その家はもう空家になっているので、近所について聞合せると、その家にはお道おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で咽喉《のど》を突いて自殺した。勿論その子細はわからない。古びた机の上に兜をかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。
その話を聞かされて、勘次郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花《こうげ》をそなえるのを例としていた。
憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。
かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。
ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来《しゅったい》したのである。何者がその兜を邦原家の門前まで持出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、別に不思議でもなんでもないことかも知れない。ああそうかと笑って済むことかも知れない。しかもその兜の歴史にはいろいろの因縁話が伴っているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのを甚だ残念がっているが、それを受取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四、五の上品な人柄で、あの際のことであるから余り綺麗でもない白地の浴衣を着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。
もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング