三

 下谷の坂本通りで善吉を斬ったのは何者であるか、このごろ流行る辻斬りであろうというだけのことで、遂にその手がかりを獲《え》ずに終った。主人をうしなった善吉の家族は、店をたたんで何処へか立退いてしまったので、兜のゆくえも判らなかった。おそらく他の諸道具と一緒に売払われたのであろうと、金兵衛は言っていた。
 それから四年目の慶応二年に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の主人《あるじ》となった。かれはお町という妻を迎えて、慶応三年にはお峰という長女を生んだ。それが現代の邦原君の姉である。
 その翌年は慶応四年すなわち明治元年で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何事が起ったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを知己《しるべ》のかたにあずけて、自分は上野の彰義《しょうぎ》隊に馳《は》せ加わった。
 五月十五日の午後、勘次郎は落武者《おちむしゃ》の一人として、降りしきる五月雨《さみだれ》のなかを根岸のかたへ急いでゆくと、下谷から根岸方面の人々は軍《いくさ》の難を逃がれようとして、思い思いに家財を取りまとめて立退いた後であるから、路ばたにはいろいろの物が落ち散っていて、さながら火事場のようである。そのあいだを踏みわけて、勘次郎はともかくも箕輪《みのわ》の方角へ落ちて行こうとすると、急ぐがままに何物にかつまずいて、危うく倒れかかった。踏みとまって見ると、それは一つの兜であった。しかも見おぼえのある兜であった。かれはそれを拾い取って小脇にかかえた。
 持っている物でさえも、なるべくは打捨てて身軽になろうとする今の場合に、重い兜を拾ってどうする気であったか。後日《ごにち》になって考えると、彼自身にもその時の心持はよく判らないとの事であったが、勘次郎は唯なんとなく懐かしいように思って、その兜を拾いあげたのである。そうして、その邪魔物を大事そうに引っかかえて又走り出した。
 箕輪のあたりまで落ちのびて、彼は又かんがえた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。千住《せんじゅ》の宿《しゅく》にはおそらく官軍が屯《たむ》ろしているであろう。その警戒の眼をくぐり抜けるには、暗くなるのを待たなければならない。さりとて、往来にさまよっていては人目に立つと思ったので、彼は円通寺に近い一軒の茅葺
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