者にまかせて老人が、早朝から若い者どもと一緒になつて立働いたために、こんな異変をひき起したのであるが、左《さ》のみ心配することはない。静《しずか》に寝かして置けば自然に癒《なお》ると、医者は云つた。それで先《ま》づ一《ひと》安心したところヘ、おせきが駈けつけたのである。
「それでもまあ好うござんしたわねえ。」
おせきも安心したが、折角《せつかく》こゝまで来た以上、すぐに帰つてしまふわけにも行かないので、病人の枕もとで看病の手つだひなどをしてゐるうちに、師走のみじかい日はいつか暮れてしまつて、大野屋の店の煤はきも片附いた。蕎麦《そば》を食《く》はされ、ゆふ飯を食はされて、おせきは五つ少し前に、こゝを出ることになつた。
「阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんにもよろしく云つてください。病人も御覧の通りで、もう心配することはありませんから。」と、大野屋の伯母《おば》は云つた。
宵ではあるが、年の暮で世間が物騒だといふので、伯母は次男の要次郎に云ひつけて、おせきを送らせて遣《や》ることにした。お取込みのところをそれには及ばないと、おせきは一応辞退したのであるが、それでも間違ひがあつてはならないと云つて、伯母は無理に要次郎を附けて出した。店を出るときに伯母は笑ひながら声をかけた。
「要次郎。おせきちやんを送つて行くのだから、影や道陸神《どうろくじん》を用心おしよ。」
「この寒いのに、誰も表に出てゐやしませんよ。」と、要次郎も笑ひながら答へた。
おせきが影を踏まれたのは、やはりこゝの家《うち》から帰る途中の出来事で、彼女《かれ》がそれを気に病んでゐるらしいことは、母のお由から伯母にも話したので、大野屋|一家《いつけ》の者もみな知つてゐるのであつた。要次郎は今年十九の、色白の痩形《やせがた》の男で、おせきとは似合《にあい》の夫婦と云つてよい。その未来の夫婦がむつまじさうに肩をならべて出てゆくのを、伯母は微笑《ほほえ》みながら見送つた。
一応は辞退したものゝ、要次郎に送られてゆくことはおせきも実は嬉《うれ》しかつた。これも笑ひながら表へ出ると、煤《すす》はきを済せて今夜は早く大戸《おおど》をおろしてゐる店もあつた。家中《うちじゆう》に灯《ひ》をとぼして何かまだ笑ひさゞめいてゐる店もあつた。その家々の屋根の上には、雪が降つたかと思ふやうに月のひかりが白く照り渡つてゐた。その月を仰いで、要次郎は夜の寒さが身にしみるやうに肩をすくめた。
「風はないが、なか/\寒い。」
「寒うござんすね。」
「おせきちやん、御覧よ。月がよく冴《さ》えてゐる。」
要次郎に云はれて、おせきも思はず振り仰ぐと、向う側の屋根の物干《ものほし》の上に、一輪の冬の月は、冷《つめた》い鏡のやうに冴えてゐた。
「好いお月様ねえ。」
とは云つたが、忽《たちま》ちに一種の不安がおせきの胸に湧《わ》いて来た。今夜は十二月十三日で、月のあることは判《わか》り切つてゐるのであつたが、今までは何かごた/\[#「ごた」に傍点]してゐたのと、要次郎と一緒にあるいてゐるのとで、おせきはそれを忘れてゐたのである。明るい月――それと反対におせきの心は暗くなつた。急におそろしいものを見せられたやうに、おせきは慌てゝ顔をそむけて俯向《うつむ》くと、今度は地に映る二人の影があり/\と見えた。
それと同時に、要次郎も思ひ出したやうに云つた。
「おせきちやんは月夜の晩には表へ出ないんだつてね。」
おせきは黙つてゐると、要次郎は笑ひ出した。
「なぜそんなことを気にするんだらう。あの晩もわたしが一緒に送つて来ればよかつたつけ。」
「だつて、なんだか気になるんですもの。」と、おせきは低い声で訴へるやうに云つた。
「大丈夫だよ。」と、要次郎はまた笑つた。
「大丈夫でせうか。」
二人はもう宇田川町の通りへ来てゐた。要次郎の云つた通り、この極月《ごくげつ》の寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も見出《みいだ》されなかつた。むかしから男女《おとこおんな》の影法師は憎いものに数へられてゐるが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落しながら、摺寄《すりよ》るやうに列《なら》んであるいてゐた。勿論《もちろん》、こゝらの大通りに往来は絶えなかつたが、二つの憎い影法師をわざわざ踏みにじつて通るやうな、意地の悪い通行人もなかつた。
宇田川町をゆきぬけて、柴井町へ踏み込んだときである。どこかの屋根の上で鴉《からす》の鳴く声がきこえた。
「あら、鴉が……」と、おせきは声のする方をみかへつた。
「月夜鴉だよ。」
要次郎がかう云つた途端に、二匹の犬がそこらの路地《ろじ》から駈《か》け出して来て、恰《あたか》もおせきの影の上で狂ひまはつた。はつと思つておせきが身をよけると、犬はそれを追ふやうに駈け
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