をふるはせながら云つた。
「誰に踏まれたの。」
「宇田川町を通ると、影や道陸神《どうろくじん》の子供達があたしの影を踏んで……。」
「なんだ。」と、弥助は張合ひ抜けがしたやうに笑ひ出した。「それが何《ど》うしたといふのだ。そんなことを騒ぐ奴《やつ》があるものか。影や道陸神なんぞ珍しくもねえ。」
「ほんたうにそんな事を騒ぐにやあ及ばないぢやあないか。あたしは何事が起つたのかと思つてびつくりしたよ。」と、母も安心と共に少しく不平らしく云つた。
「でも、自分の影を踏まれると、悪いことがある……。寿命が縮まると……。」と、おせきは更に涙ぐんだ。
「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものかね。」
お由は一言《いちごん》の下《もと》に云ひ消したが、実をいふと其頃《そのころ》の一部の人達のあひだには、自分の影を踏まれると好くないといふ伝説がないでもなかつた。七|尺《しやく》去つて師の影を踏まずなどと支那《しな》でも云ふ。たとひ影にしても、人の形を踏むといふことは遠慮しろといふ意味から、彼《か》の伝説は生まれたらしいのであるが、後《のち》には踏む人の遠慮よりも踏まれる人の恐れとなつて、影を踏まれると運が悪くなるとか、寿命が縮むとか、甚《はなは》だしきは三年の内に死ぬなどと云ふ者がある。それほどに怖るべきものであるならば、どこの親達も子どもの遊びを堅く禁止しさうなものであるが、それ程にはやかましく云はなかつたのを見ると、その伝説や迷信も一般的ではなかつたらしい。而《しか》もそれを信じて、それを恐れる人達からみれば、それが一般的であると無いとは問題ではなかつた。
「馬鹿をいはずに早く奥へ行け。」
「詰らないことを気におしでないよ。」
父には叱《しか》られ、母にはなだめられて、おせきはしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]と奥ヘ這入《はい》つたが、胸一杯の不安と恐怖とは決して納まらなかつた。近江屋の二階は六畳と三畳の二間《ふたま》で、おせきはその三畳に寝ることになつてゐたが、今夜は幾たびも強い動悸《どうき》におどろかされて眼《め》をさました。幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に跳《おど》つてゐる夢をみた。
あくる日は十三夜で、近江屋でも例年の通りに芒《すすき》や栗《くり》を買つて月の前にそなへた。今夜の月も晴れてゐた。
「よいお月見でございます。」と、近所の人たちも云つた。
併《しか》しおせきはその月を見るのが何だか怖しいやうに思はれてならなかつた。月が怖しいのではない、その月のひかりに映し出《いだ》される自分の影をみるのが怖しいのであつた。世間ではよい月だと云つて、或《あるい》は二階から仰ぎ、あるひは店先から望み、あるひは往来へ出て眺めてゐるなかで、かれ一人は奥に閉籠《とじこも》つてゐた。
――影や道陸神、十三夜の牡丹餅《ぼたもち》――
子ども等《ら》の歌ふ声々が、おせきの弱い魂を執念ぶかく脅《おびや》かした。
二
それ以来、おせきは夜あるきをしなかつた。殊《こと》に月の明るい夜には表へ出るのを恐れるやうになつた。どうしても夜あるきをしなければならないやうな場合には、努めて月のない暗い宵を選んで出ることにしてゐた。世間の娘たちとは反対のこの行動が父や母の注意をひいて、お前はまだそんな詰らないことを気にしてゐるのかと、両親からしば/\叱《しか》られた。而《しか》もおせきの魂に深く食《く》ひ入つた一種の恐怖と不安とはいつまでも消え失せなかつた。
さうしてゐる中《うち》に、不運のおせきは再び自分の影におどろかされるやうな事件に遭遇した。その年の師走《しわす》の十三日、おせきの家《うち》で煤掃《すすはき》をしてゐると、神明前の親類の店から小僧が駈《か》けて来て、おばあさんが急病で倒れたと報《しら》せた。神明前の親類といふのは、おせきの母の姉が縁付いてゐる家《うち》で、近江屋とは同商売であるばかりか、その次男の要次郎をゆく/\はおせきの婿《むこ》にするといふ内相談《ないそうだん》もある。そこの老母が倒れたと聞いては其儘《そのまま》には済されない。誰かゞすぐに見舞に駈《か》け付けなければならないのであるが、生憎《あいにく》にけふは煤掃の最中で父も母も手が離されないので、とりあへずおせきを出して遣《や》ることにした。
襷《たすき》をはづして、髪をかきあげて、おせきが兎《と》つかはと店を出たのは、昼の八《や》つ(午後二時)を少し過ぎた頃であつた。ゆく先は大野屋といふ店で、こゝも今日は煤掃である。その最中に今年七十五になるおばあさんが突然|打《ぶ》つ倒れたのであるから、その騒ぎは一通りでなかつた。奥には四畳半の離屋《はなれ》があるので、急病人をそこへ運び込んで介抱してゐると、幸ひに病人は正気に戻つた。けふは取分けて寒い日であるのに、達
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング