こし案外に感じた。併《しか》し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度《ちようど》幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して遣《や》つた。
 若い男と女とは金杉《かなすぎ》の方角にむかつて歩いてゆくと、冷《つめた》い秋の夜風がふたりの袂《たもと》をそよ/\と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。
「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。
 おせきは黙つてゐた。
「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が鬱《ふさ》いだり、からだが悪くなつたりして、お父《とつ》さんや阿母《おつか》さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」
「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。
 ――影や道陸神《どうろくじん》、十三夜のぼた餅《もち》――
 子どもの唄《うた》が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。
「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて遣《や》る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。
 子供の群は十人ばかりが一組になつて横町《よこちよう》から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供|等《ら》は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。
「お化けだ、お化けだ。」
 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて嚇《おど》したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨《がいこつ》の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者《ぎようじや》を狐《きつね》つかひなどと罵《ののし》つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは俄《にわか》に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。
 要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返《ひつかえ》して逃げた。
 その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈《か》け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬《けさぎり》に斬《き》られて往来のまん中に倒れてゐた。
 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬《つじぎり》でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
 おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者《ぎようじや》の奴《やつ》が狐《きつね》を憑《つ》けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤《いきどお》つた。しかし誰にも確《たしか》な説明の出来る筈《はず》はなかつた。唯《ただ》こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。



底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
   1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
   1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
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