に前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返《ひつかえ》して逃げた。
その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈《か》け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬《けさぎり》に斬《き》られて往来のまん中に倒れてゐた。
近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬《つじぎり》でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者《ぎようじや》の奴《やつ》が狐《きつね》を憑《つ》けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤《いきどお》つた。しかし誰にも確《たしか》な説明の出来る筈《はず》はなかつた。唯《ただ》こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。
底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
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