ない悪戯《いたずら》ではあるが、たとひ影にしても、自分の姿の映つてゐるものを土足で踏みにじられると云ふのは余り愉快なものではない。それに就《つい》てこんな話が伝へられてゐる。
 嘉永《かえい》元年九月十二日の宵である。芝の柴井町《しばいちょう》、近江屋《おうみや》といふ糸屋の娘おせきが神明前《しんめいまえ》の親類をたづねて、五つ(午後八時)前に帰つて来た。あしたは十三夜で、今夜の月も明るかつた。ことしの秋の寒さは例年よりも身にしみて、風邪《かぜ》引《ひ》きが多いといふので、おせきは仕立ておろしの綿入《わたいれ》の両|袖《そで》をかき合せながら、北に向つて足早に辿《たど》つてくると、宇田川町《うだがわちよう》の大通りに五六人の男の児《こ》が駈《か》けまはつて遊んでゐた。影や道陸神《どうろくじん》の唄《うた》の声もきこえた。
 そこを通りぬけて行きかゝると、その子供の群は一度にばら/\と駈けよつて来て、地に映つてゐるおせきの黒い影を踏まうとした。はつと思つて避けようとしたが、もう間にあはない。いたづらの子供たちは前後左右から追取《おつと》りまいて来て、逃げまはる娘の影を思ふがまゝに踏んだ。かれらは十三夜のぼた餅《もち》を歌ひはやしながらどつと笑つて立去つた。
 相手が立去つても、おせきはまだ一生懸命に逃げた。かれは息を切つて、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店の框《かまち》へ腰をおろしながら横さまに俯伏《うつぶ》してしまつた。店には父の弥助《やすけ》と小僧ふたりが居あはせたので、驚いてすぐに彼女《かれ》を介抱した。奥からは母のお由《よし》も女中のおかんも駈出《かけだ》して来て、水をのませて、落着かせて、さて、その仔細《しさい》を問ひ糺《ただ》さうとしたが、おせきは胸の動悸《どうき》がなか/\鎮《しず》まらないらしく、しばらくは胸をかゝヘて店さきに俯伏してゐた。
 おせきは今年十七の娘ざかりで、容貌《きりよう》もよい方である。宵とは云ヘ、月夜とは云ヘ、賑《にぎや》かい往来とは云つても、なにかの馬鹿者《ばかもの》にからかはれたのであらうと親たちは想像したので、弥助は表へ出てみたが、そこらには彼女《かれ》を追つて来たらしい者の影もみえなかつた。
「おまへは一体どうしたんだよ。」と、母のお由は待ちかねて又|訊《き》いた。
「あたし踏まれたの。」と、おせきは声
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