んなことをいう習慣が去りませんでしたので、かたがた来年の春まで延期ということになりまして、その翌年の四月の末にいよいよ結婚式を挙げることになりました。勿論、それまでには私の方でもよく先方の身許《みもと》を取調べまして、浅井の兄さんは夏夫といって某会社で相当の地位を占めていること、夏夫さんには奥さんも子供もあること、また本人の浅井秋夫も品行方正で、これまで悪い噂もなかったこと、それらは十分に念を入れて調査した上で、わたくしの家へ養子として迎い入れることに決定いたしたのでございます。
そこで、結婚式もとどこおりなく済まして、わたくしども夫婦は新婚旅行ということになりました。その行く先はどこがよかろうと評議の末に、やはり思い出の多いUの温泉場へゆくことに決めました。思い出の多い温泉場――このUの町はまったく私に取って思い出の多い土地になってしまいました。しかしその当時は新婚の楽しさが胸いっぱいで、なんにも考えているような余裕もなく、春風を追う蝶のような心持で、わたくしは夫と共にここへ飛んで参ったのでございます。そのときの宿はここではありません。もう少し川下《かわしも》の方の○○屋という旅館でございました。時候はやはり五月のはじめで、同じことを毎度申すようですが、川の岸では蛙がそうぞうしく啼いていました。
滞在は一週間の予定で、その三日目の午後、やはりきょうのように陰っている日でございました。午前中は近所を散歩しまして、午後は川に向った二階座敷に閉じこもって、水の音と蛙の声を聞きながら、新夫婦が仲よく話していました。そのうちにふと見ると、どこかの宿屋の印半纏を着た男が小さい叉手網《さであみ》を持って、川のなかの岩から岩へと渡りあるきながら、なにか魚《さかな》をすくっているらしいのです。
「なにか魚を捕っています。」と、わたくしは川を指して言いました。「やっぱり山女でしょうか。」
「そうだろうね。」と、夫は笑いながら答えました。「ここらの川には鮎《あゆ》もいない、鮠《はや》もいない。山女と鰻ぐらいのものだ。」
鰻――それがわたくしの頭にピンと響くようにきこえました。
「うなぎは大きいのがいますか。」と、わたくしは何げなく訊《き》きました。
「あんまり大きいのもいないようだね。」
「あなたも去年お釣りになって……。」
「むむ。二、三度釣ったことがあるよ。」
ここで黙っていればよかったのでした。鰻のことなぞは永久に黙っていればよかったのですが、年の若いおしゃべりの私は、ついうっかりと飛んだことを口走ってしまいました。
「あなたその鰻をどうなすって……。」
「小さな鰻だもの、仕様がない。そのまま川へ抛《ほう》り込んでしまったのさ。」
「一ぴきぐらいは食べたでしょう。」
「いや、食わない。」
「いいえ、食べたでしょう。生きたままで……。」
「冗談いっちゃいけない。」
夫は聞き流すように笑っていましたが、その眼の異様に光ったのが私の注意をひきました。その一|刹那《せつな》に、ああ、悪いことを言ったなと、わたくしも急に気がつきました。結婚後まだ幾日も経たない夫にむかって、迂濶《うかつ》にこんなことを言い出したのは、確かにわたくしが悪かったのです。しかし私として見れば、去年以来この一件が絶えず疑問の種になっているのです。この機会にそれを言い出して、夫の口から相当の説明をきかして貰《もら》いたかったのでございます。
口では笑っていても、その眼色のよくないのを見て、夫が不機嫌であることを私も直ぐに察しましたので、鰻については再びなんにも言いませんでした。夫も別に弁解らしいことを言いませんでした。それからお茶をいれて、お菓子なぞを食べて、相変らず仲よく話しているうちに、夏の日もやがて暮れかかって、川向うの山々のわか葉も薄黒くなって来ました。それでも夕御飯までには間があるので、わたくしは二階を降りて風呂へ行きました。
そんな長湯をしたつもりでもなかったのですが、風呂の番頭さんに背中を流してもらったり、湯あがりのお化粧をしたりして、かれこれ三十分ほどの後に自分の座敷へ戻って来ますと、夫の姿はそこに見えません。女中にきくと、おひとりで散歩にお出かけになったようですという。私もそんなことだろうと思って、別に気にも留めずにいましたが、それから一時間も経って、女中が夕御飯のお膳を運んで来る時分になっても、夫はまだ帰って来ないのでございます。
「どこへ行くとも断わって出ませんでしたか。」
「いいえ、別に……。唯ステッキを持って、ふらりとお出かけになりました。」と、女中は答えました。
それでも帳場へは何か断わって行ったかも知れないというので、女中は念のために聞合せに行ってくれましたが、帳場でもなんにも知らないというのです。それから一時間を過ぎ、二時間を過ぎ
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