しに逢って、先日見舞に来てくれた礼を述べました。
「松島君ももう全快したのですが、十日《とおか》ほど遅れて帰京することになります。ついては、君がひと足さきへ帰るならば、田宮さんを一度おたずね申して、先日のお礼をよくいって置いてくれと頼まれました。」
「それは御丁寧に恐れ入ります。」
父も喜んで挨拶していました。それから戦地の話などいろいろあって、浅井さんは一時間あまり後に帰りました。帰ったあとで、浅井さんの評判は悪くありませんでした。父はなかなかしっかりしている人物だと言っていました。母は人品のいい人だなと褒めていました。それにつけても、生きた鰻を食べたなどという話をして置かないでよかったと、わたくしは心のうちで思いました。
十日ほどの後に、松島さんは果たして帰って来ました。そんなことはくだくだしく申上げるまでもありませんが、それから又ふた月ほども過ぎた後に、松島さんがお母さん同道《どうどう》でたずねて来て、思いもよらない話を持出しました。浅井さんがわたくしと結婚したいというのでございます。今から思えば、わたくしの行く手に暗い影がだんだん拡がってくるのでした。
三
松島さんは、まだ年が若いので、自分ひとりで縁談の掛合いなどに来ては信用が薄いという懸念《けねん》から、お母さん同道で来たらしいのです。そこで、お母さんの話によると、浅井さんの兄さんは帝大卒業の工学士で、ある会社で相当の地位を占めている。浅井さんは次男で、私立学校を卒業の後、これもある会社に勤めていたのですが、一年志願兵の少尉である関係上、今度の戦争に出征することになったのですから、帰京の後は元の会社へ再勤することは勿論で、現に先月から出勤しているというのです。
わたくしの家には男の児がなく、姉娘のわたくしと妹の伊佐子との二人きりでございますから、順序として妹が他に縁付き、姉のわたくしが婿をとらねばなりません。その事情は松島さんの方でもよく知っているので、浅井さんは幸い次男であるから、都合によっては養子に行ってもいいというのでした。すぐに返事の出来る問題ではありませんから、両親もいずれ改めて御返事をすると挨拶して、いったん松島さんの親子を帰しましたが、先日の初対面で評判のいい浅井さんから縁談を申込まれたのですから、父も母もよほど気乗りがしているようでした。
こうなると、結局はわたくしの料簡《りょうけん》次第で、この問題が決着するわけでございます。母もわたくしに向って言いました。
「お前さえ承知ならば、わたし達には別に異存はありませんから、よく考えてごらんなさい。」
勿論、よく考えなければならない問題ですが、実を申すと、その当時のわたくしにはよく考える余裕もなく、すぐにも承知の返事をしたい位でございました。
生きた鰻を食った男――それをお前は忘れたかと、こう仰しゃる方もありましょう。わたくしも決して忘れてはいません。その証拠には、その晩こんな怪しい夢をみました。
場所はどこだか判りませんが、大きい爼板《まないた》の上にわたくしが身を横たえていました。わたくしは鰻になったのでございます。鰻屋の職人らしい、印半纏《しるしばんてん》を着た片眼の男が手に針か錐《きり》のようなものを持って、わたくしの眼を突き刺そうとしています。しょせん逃がれぬところと観念していますと、不意にその男を押しのけて、又ひとりの男があらわれました。それはまさしく浅井さんと見ましたから、わたしは思わず叫びました。
「浅井さん、助けてください。」
浅井さんは返事もしないで、いきなり私を引っ掴《つか》んで自分の口へ入れようとするのです。わたくしは再び悲鳴をあげました。
「浅井さん。助けてください。」
これで夢が醒めると、わたくしの枕はぬれる程に冷汗《ひやあせ》をかいていました。やはり例のうなぎの一件がわたくしの頭の奥に根強くきざみ付けられていて、今度の縁談を聞くと同時にこんな悪夢がわたくしをおびやかしたものと察せられます。それを思うと、浅井さんと結婚することが何だか不安のようにも感じられて来たので、わたくしは夜のあけるまで碌々《ろくろく》眠らずに、いろいろのことを考えていました。
しかし夜が明けて、青々とした朝の空を仰ぎますと、ゆうべの不安はぬぐったように消えてしまいました。鰻のことなどを気にしているから、そんな忌《いや》な夢をみたので、ほかに子細も理屈もある筈がないと、私はさっぱり思い直して、努めて元気のいい顔をして両親の前に出ました。こう申せば、たいてい御推量になるでしょう。わたくしの縁談はそれからすべるように順調に進行したのでございます。
唯ひとつの故障は、平生《へいぜい》から病身の母がその秋から再び病床につきましたのと、わたくしが今年は十九の厄年――その頃はまだそ
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