れていましたが、その顔はたしかに秋夫君で、右の耳の下に小さい疵《きず》のあるのが証拠です。わたしは直ぐに店にはいって行って、不意に秋夫君と声をかけると、その男はびっくりしたように私の顔を眺めていましたが、やがてぶっきら棒に、そりゃあ人違いだ、わたしはそんな人じゃあないと言ったままで、すっと奥へはいってしまいました。何分ほかにも連れがあるので、一旦はそのまま帰って来ましたが、どう考えても秋夫君に相違ないと思われますから、取りあえずお知らせに来たんです。」
松島さんがそう言う以上、おそらく間違いはあるまい。殊にうなぎ屋の店で見付けたということが、わたくしの注意をひきました。もう日が暮れかかっているのですが、あしたまで待ってはいられません。わたくしは両親とも相談の上で、松島さんと二台の人車《くるま》をつらねて、すぐに北千住へ出向きました。
途中で日が暮れてしまいまして、大橋を渡るころには木枯しとでもいいそうな寒い風が吹き出しました。松島さんに案内されて、その鰻屋へたずねて行きますと、その職人は新吉という男で五、六日前からこの店へ雇われて来たのだそうです。もう少し前に近所の湯屋へ出て行ったから、やがて帰って来るだろうと言いますので、暫くそこに待合せていましたが、なかなか帰って参りません。なんだか又不安になって来ましたので、出前持の小僧を頼んで湯屋へ見せにやりますと、今夜はまだ来ないというのでございます。
「逃げたな。」と、松島さんは舌打ちしました。わたくしも泣きたくなりました。
もう疑うまでもありません。松島さんに見付けられたので、すぐに姿を隠したに相違ありません。こうと知ったらば、さっき無理にも取押えるのであったものをと、松島さんは足摺りをして悔みましたが、今更どうにもならないのです。
それにしても、ここの店の雇人である以上、主人はその身許を知っている筈《はず》でもあり、また相当の身許引受人もあるはずです。松島さんはまずそれを詮議《せんぎ》しますと、鰻屋の亭主は頭をかいて、実はまだよくその身許を知らないというのです。今まで雇っていた職人は酒の上の悪い男で、五、六日前に何か主人と言い合った末に、無断でどこへか立去ってしまったのだそうです。すると、その翌日、片眼の男がふらりと尋ねて来て、こちらでは職人がいなくなったそうだが、その代りに私を雇ってくれないかという。こっち
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