しても、あまり良い効果を得られそうもない。私も何か新しい怪談劇を書いてみたいと心がけているが、どうも巧く行かない。その小手調べとして、去年の夏は本郷座に「牡丹燈記」を上演し、今年の春は歌舞伎座に「雷火」を上演してみたが、どちらも舞台の上ではやはり成功しなかった。
 在来の怪談劇の狙い所は、事件そのものの怪奇と云うことよりも、早替りとか仕掛け物とかいう一種のケレンにあったらしい。俳優もそれを得意とし、観客も亦それを喜んだらしいが、そう云うケレンが最早喜ばれないとすると、今後の怪談劇はよほどむずかしい事になる。鈴木泉三郎君の「生きている小平次」などは、近時発表された怪談劇の尤《ゆう》なるものであるが、最後に小平次の姿を見せた方が好いか悪いかは種々の議論のある処で、あの合理不合理とを別問題として、私は今も猶どちらが好いかの判断に迷っている。
 いずれにしても、在来の怪談劇が現代の舞台の上からだんだんに消えてゆくのは判り切っている。そうして、それに代るべき新しい怪談劇が出現するかどうかと云うに、いかに文明が進歩しても、怪を好む人情の消え去らない以上、なんらかの形式に於いて怪談劇は依然繰り返されることであろう。しかも優れたる怪談劇は容易に出現しないであろう。
 前にも云う通り、在来の怪談劇は早替りとか仕掛けとか云うことを主としている。それは勿論俳優本位から考え出されたものであるが、一般の観客も亦、幽霊その物の姿を見なければ得心しなかったらしい。演劇にかぎらず、在来の小説などに描かれている幽霊も、大抵はその姿をありありと現わしているようであるが、小説は格別、今後の舞台の上に幽霊の姿をあらわす事はむずかしい。それが怪談劇であれば、猶更その姿を明らさまに見せることを避けて、一種の鬼気とか妖気とか云うものだけを感じさせた方が、観客の恐怖心を誘い出す上に於いて有効であるらしい。
 これは演劇ばかりでなく、怪談全般に就いて云うべきことであるが、わが国在来の怪談はあまりに辻褄が合い過ぎる。たとえば甲が乙を殺したが為に、甲又は甲の眷族が乙の幽霊に悩まされると云ったような類で、勿論それには因果応報の理も示されているのであろうが、余りにその因果の関係が明瞭であるために、却って凄味を削減される憾みがある。しょせん怪談というものは理窟の判らないところに凄味もあり、興味もあるのではあるまいか。と云って
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