らへ出張して来るらしく、旅館の人たちとも心安そうに話していた。年のころは二十七、八で、色の白い、身なりの小綺麗な、いかにも外交員タイプの如才のない男で、おそらく宿帳でも繰って私の姓名や身分を知ったのであろう、朝晩に廊下などで顔を見合せると、「先生、先生。」と、馴れなれしく話し掛けたりした。彼は氷垣明吉という名刺をくれた。
 ある日の宵に、わたしは町へ散歩に出た。うす暗い地方の町にこれぞという見る物もないので、わたしは中途から引っ返して、町はずれから近在の方へ出ようとすると、二人の男に挨拶《あいさつ》された。月あかりで透かして視ると、かれらはこのごろ顔なじみになった町役場の書記と小使《こづかい》で、これから近所の川へ夜釣りに行くというのであった。
「ここらの川では何が釣れます。」
 そんな話をしながら、わたしも二人とならんで歩いた。一町あまりも町を離れて、小さい土橋にさしかかると、むこうから男と女の二人連れが来て、私たちと摺れ違って通った。男はわたしを見て俄《にわ》かに顔をそむけたが、女は平気で何か笑いながら行き過ぎた。
「曽田屋の気違いめ、又あの保険屋とふざけ散らしているな。」と、若い書記は二人のうしろ姿を見送って、幾分の嫉妬もまじっているように罵った。
 男は保険会社の社員の氷垣で、女は曽田屋の妹娘のお時であることを、わたしも知っていた。しかも「気違い」という言葉が私の注意をひいた。
「気違いですか、あの娘は……。」
「まあ、気違いというのでしょうな。」と、老いたる小使は苦笑いをしながら答えた。「東京の先生は御存じありますまいが、曽田屋のむすめ姉妹といえば、ここらでは評判の色気違いで……。今夜もあの通り保険屋の若い男と狂い廻っている始末……。親たちや兄《あに》さんはまったく気の毒ですよ。」
 私もまったく気の毒だと思った。揃いも揃って娘二人があの体《てい》たらくでは、親や兄は定めて困っているに相違ない。普通の人は単に、色気違いとして嘲《あざけ》り笑っているに過ぎないらしいが、わたしから観ると、かの娘らは一種の精神病者か、あるいはヒステリー患者のたぐいであった。みだりに嘲り笑うよりも、むしろ気の毒な痛ましい人々ではあるまいかと思われた。わたしは更に小使にむかって訊いた。
「あの姉妹はいつ頃からあんな風になったのですか。」
「二、三年前……。おととし頃からかな。」と、
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