らそれへと追窮するような博士の態度を、わたしは少しく怪しみながら答えた。
「五年ほど前です。」
「五年ほど前……。」と、博士は過去を追想するように言った。「わたしが泊まったのは七年前だから、その頃にはまだ帰っていなかったのですね。」
「じゃあ、あなたもその旅館にお泊りになった事があるんですか。」
「あります。」と、博士はうなずいた。「その土地に流行する一種の害虫を調査するために、一ヵ月ほどもMの町に滞在していました。そのあいだに近所の町村へ出張したこともありましたが、大抵はS旅館を本陣にしていました。あなたの言う通り、土地では屈指《くっし》の旧家であるだけに、旅館とはいいながら大きい屋敷にでも住んでいるような感じで、まことに落ちついた居心地のいい家でした。老主人夫婦も若主人夫婦も正直な好人物で、親切に出這入《ではい》りの世話をしてくれましたが……。」
 言いかけて、博士は表に耳を傾けた。
「雨の音ですね。」
「降って来たようです。」と、わたしも耳を傾けながら言った。「さっきまで晴れていたんですが……。」
「秋の癖ですね。」
 ふたりは暫く黙って雨の音を聴いていたが、やがて博士は又しずかに言い出した。
「あなたはS旅館の次男という人から何か聴いたことがありますか、あの旅館にからんだ不思議な話を……。」
「聴きません。S旅館の次男――名は芳雄といって、私とは非常に親しくしていましたが、自分の家について不思議な話なぞをかつて聴かせたことはありませんでした。一体それはどういう話です。」
「わたしも科学者の一人でありながら、真面目でこんなことを話すのもいささかお恥かしい次第であるが、とにかくこれは嘘|偽《いつわ》りでない、わたしが眼《ま》のあたりに見た不思議の話です。S旅館も客商売であるから、こんなことが世間に伝わっては定めて迷惑するだろうと思って、これまで誰にも話したことは無かったのですが、あなたがその次男の親友とあれば、お話をしても差支えは無かろうかと思います。今もいう通り、それは不思議の話――まあ、一種の怪談といってもいいでしょう。お聴きになりますか。」
「どうぞ聴かせて下さい。」と、わたしは好奇の眼をかがやかしながら、問い迫るように相手の顔をみつめた。
 話の邪魔をすまいとするのか、表の雨の音はやんだらしい。ただ時どきに軒を落ちる雨だれが、何かをかぞえるように寂しくき
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