が、別に思い出すようなこともなかったらしい。
「普請中にも変ったことはなかったようだ。まあ、あの一件ぐらいだな。」と、書記は笑いながら言った。
「なんだ、あんなこと……。あははははは」と、小使も笑い出した。
「あの一件とは……。どんな事です。」と、わたしは重ねて訊いた。
「なに、詰まらない事ですよ。」と、若い書記はまた笑った。
「曽田屋の別棟は五間《いつま》ぐらいですが、ほかにも手入れをする所が相当にあるので、七、八人の大工が絶えず入り込んで、材木の切り組から出来《しゅったい》までには三月以上、やがて四月くらいはかかりましたろう。それは一昨年《おととし》の三月頃から五、六月頃にかけてのことで、その仕事に来た大工はみな泊り込みで働いていたんです。そのなかに西山――名は何というのか知りませんが、とにかく西山という若い大工がまじっていました。年はまだ十九とか二十歳《はたち》とかいうんですが、小僧あがりに似合わず仕事の腕はたいへんに優れていて、一人前の職人もかなわない位であったそうです。それが西山という姓を名乗ってはいますが、実は朝鮮人だともいい、又は琉球人の子で鹿児島で育ったのだともいう噂があって、当人に訊いてもはっきりした返事をしないので、まあどっちかだろう、ということになっていました。見たところは内地人にちっとも変らず、言葉は純粋の鹿児島弁でした。色の蒼白い、痩形《やせがた》の、神経質らしい男でしたが、なにしろ素直でよく働き、おまけに腕が優れているというんですから、親方にも仲間にも可愛がられていました。曽田屋の人たちも可愛がっていたそうです。
すると、あしかけ三月目の五月頃のことでした。さっきから問題になっている曽田屋の娘、お政とお時の姉妹が寺参りに行くとかいうので、髪を結い、着物を着かえて、よそ行きの姿で普請場へ行ったんです。母の身支度の出来るのを待っている間に、なに心なく普請場を覗《のぞ》きに行ったんでしょう。その時はちょうど午《ひる》休みで大工も左官もどこへか行っていて、あの西山がたった一人、何か削り物をしていたんです。姉妹もふだんから西山を可愛がっているので、傍へ寄って何か話しているうちに、どういう切っ掛けで何を言い出したのか知りませんが、要するに西山がふたりの娘にむかって、突然に淫《みだ》らなことを言い出したんです。いや、言い出したばかりでなく、何か怪《け
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