迚《とて》もここに長居する気がないから、其日《そのひ》の中《うち》に早々《そうそう》ここを引払《ひきはら》って、再び倫敦《ロンドン》へ逃帰《にげかえ》る。その仔細を知らぬ番人夫婦は、余りお早いではありませんか、せめてモウ五六日、せめて殿様がお出《いで》になるまで、と詞《ことば》を尽して抑留《ひきと》めたが、私はモウ気が気でない、無理に振切《ふりき》って逃げて帰った。
 で、私の臆病には自分ながら愛想《あいそ》の竭《つ》きる位で、倫敦へ帰った後《のち》も、例の貴婦人の怖い顔が明けても暮れても我眼《わがめ》に彷彿《ちらつ》いて、滅多に忘れる暇《ひま》がない。そこで私も考えた、自分の職業は画工である、斯《かか》る怪異《あやしみ》を見て唯《ただ》怖い怖いと顫《ふる》えているばかりが能でもあるまい、其《そ》の怪しい形の有《あり》のままを筆に上《のぼ》せて、いかに其《そ》れが恐しくあったかと云う事を他人《ひと》にも示し、また自分の紀念《きねん》にも存して置こうと、いしくも思い立ったので、其日《そのひ》から直《ただ》ちに画筆《えふで》を把《と》って下図《したず》に取《とり》かかった。で、わが眼の前に
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