と、光はますます明るくなって、人は次第に窓の方へ歩み寄る、其《そ》の人は女、正《まさ》しく三十前後の女、加之《しか》も眼眩《まばゆ》きばかりに美しく着飾った貴婦人で、するする[#「するする」に傍点]と窓の側《そば》へ立寄《たちよ》って、何か物を投出《なげだ》すような手真似をしたが、窓は先刻《せんこく》私が確《たしか》に鎖《と》じたのだから、迚《とて》も自然に開《あ》く筈はない。で、其《その》婦人は如何《いか》にも忌々《いまいま》しそうな、悶《じれ》ったそうな、癪《しゃく》に障《さわ》ると云うような風情で、身を斜めにして私の方をジロリと睨んだ顔、取立《とりた》てて美人と賞讃《ほめはや》すほどではないが、確《たしか》に十人並以上の容貌《きりょう》で、誠に品の好《い》い高尚《けだか》い顔。けれども、その眼と眉の間《あいだ》に一種形容の出来ぬ凄味を帯《おび》ていて、所謂《いわゆ》る殺気を含んでいると云うのであろう、その凄い怖い眼でジロリと睨まれた一瞬間の怖さ恐しさ、私は思わず気が遠くなって、寝台の上に顔を押付《おしつ》けた。と思う中《うち》に、光は忽《たちま》ち消えて座敷は再び旧《もと》の闇、彼《か》の恐しい婦人の姿も共に消えて了《しま》った、私は転げるように寝台から飛降《とびお》りて、盲探《めくらさぐ》りに燧木《マッチ》を探り把《と》って、慌てて座敷の瓦斯《ガス》に火を点《とぼ》し、室内昼の如くに照《てら》させて四辺《あたり》隈《くま》なく穿索したが固《もと》より何物を見出そう筈もなく、動悸《どうき》の波うつ胸を抱えて、私は霎時《しばらく》夢のように佇立《たたず》んでいたが、この夜中《やちゅう》に未《ま》だ馴染《なじみ》も薄い番人を呼起《よびおこ》すのも如何《いかが》と、その夜は其《そ》のままにして再び寝台へ登《あが》ったが、彼《か》の怖しい顔がまだ眼の前《さき》に彷彿《ちらつ》いて、迚《とて》も寝られる筈がない、ただ怖い怖いと思いながら一刻千秋の思《おもい》で其《その》夜《よ》を明《あか》した。と、斯《こ》ういうと、諸君は定めて臆病な奴だ、弱虫だと御嘲笑《おわらい》なさるだろうが、私も職業であるから此《こ》れまでに種々《いろいろ》の恐しい図を見た、悪魔の図も見た、鬼の図も見た、併《しか》し今夜のような凄い恐しい女の顔には曾《かつ》て出逢った例《ためし》がない、唯《ただ》見れば尋常一様《じんじょういちよう》の貴婦人で、別に何の不思議もないが、扨《さて》その顔に一種の凄味を帯びていて、迚《とて》も正面から仰《あお》ぎ視《み》るべからざる恐しい顔で、大抵の婦人《おんな》小児《こども》は正気を失うこと保証《うけあい》だ。
扨《さて》その翌朝になると、番人夫婦が甲斐甲斐《かいがい》しく立働《たちはたら》いて、朝飯の卓子《テーブル》にも種々《いろいろ》の御馳走が出る、その際、昨夜《ゆうべ》の一件を噺《はな》し出そうかと、幾たびか口の端《さき》まで出かかったが、フト私の胸に泛《うか》んだのは、若《もし》や夢ではなかったかと云う一種の疑惑《うたがい》で、迂濶《うかつ》に詰《つま》らぬ事を云い出して、飛《とん》だお笑い種《ぐさ》になるのも残念だと、其《そ》の日は何事も云わずに了《しま》ったが、何《ど》う考えても夢ではない、確《たしか》に実際に見届けたに違いない、併《しか》し実際にそんな事のあろう筈がない、恐らくは夢であろう、イヤ事実に相違ないと、半信半疑に長い日を暮して、今日もまた闇《くら》き夜となった、夢か、事実か、その真偽を決するのは今夜にあると、私は宵から寝台《ねだい》に登《あが》ったが、眼は冴えて神経は鋭く、そよ[#「そよ」に傍点]との風にも胸が跳《おど》って迚《とて》も寝入られる筈がない、その中《うち》に段々、夜も更《ふ》けて恰《あたか》も午前二時、即ち昨夜《ゆうべ》とおなじ刻限になったから、汝《おの》れ妖怪変化|御《ご》ざんなれ、今夜こそは其《そ》の正体を見とどけて、あわ好《よ》くば引捉《ひっとら》えて化《ばけ》の皮を剥《は》いで呉《く》れようと、手ぐすね引いて待構《まちかま》えていると、神経の所為《せい》か知らぬが今夜も何だか頭の重いような、胸の切ないような、云うに云われぬ嫌な気持になって、思わず半身《はんしん》を起《おこ》そうとする折こそあれ、闇《くら》い、闇《くら》い、真闇《まっくら》な斯《こ》の一室が俄《にわか》にぱっ[#「ぱっ」に傍点]と薄明るくなって恰《あたか》も朧月夜《おぼろづきよ》のよう、扨《さて》はいよいよ来たりと身構えして眼を瞠《みは》る間《ひま》もなく、室《しつ》の隅から忽《たちま》ち彼《か》の貴婦人の姿が迷うが如くに現われた。ハッと思う中《うち》に、貴婦人は昨夜《ゆうべ》の如く、長い裾《すそ》を曳《ひ》いてする
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