た。佐山君はほとんど毎日のように師団司令部に出入りするので、監理部の向田大尉の顔をよく見識っていた。
「今晩は……。」と、佐山君は起立して、うやうやしく敬礼した。
 大尉はたしかにこっちをじろりと見返ったらしかったが、そのまま会釈《えしゃく》もしないで行ってしまった。佐山君は自分に答礼されなかったという不愉快よりも、さらに一種の不思議を感じた。この戦時の忙がしい最中に、大尉が悠々と釣りなどをしているのもおかしい。殊に大尉は軍人にはめずらしいくらいの愛想《あいそ》のよい人で、出入りの商人などに対してもいつも丁寧に応対するというので、誰にもかれにも非常に評判のよい人である。その大尉殿が毎日のように顔を見合せている自分に対して、なんの挨拶もせずに行き過ぎてしまったのは、どうもおかしい。うす暗いので、もしや人違いをしたのかとも思ったが、マッチの火にうつった男の顔はたしかに向田大尉に相違ないと、佐山君は認めた。
「わざと知らぬ顔をしていたのかも知れない。」
 大尉は忙がしい暇をぬすんで、自分の好きな魚釣りに出て来た。そこを自分に認められた。この軍国多事の際に、軍人が悠長らしく釣竿などを持出してい
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