噂が伝えられた。向田大尉はほんとうに死んだらしいというのである。狐が殺されたのではなく、向田大尉が殺されたのである。現にその事件の翌夜、大尉の自宅から白木の棺をこっそりと運び出したのを見た者があるというのである。しかし佐山君は、すぐにその噂を否認した。狐が殺されたという翌朝、自分は司令部の門前で確かに向田大尉と顔を見合せて、いつもの通りに挨拶までも交換したのであるから、大尉が死んでしまった筈は断じてないと、佐山君はあくまでも主張していると、あたかもそれを裏書きするように、また新しい噂がきこえた。大尉の家から出たのは人間の葬式ではない、かの古狐の死骸を葬ったのである。畜生とはいえ、仮りにも自分の形を見せたものの死骸を野にさらすに忍びないというので、向田大尉はその狐の死骸を引取って来て、近所の寺に葬ったというのであった。
「そうだ。きっとそうだ。」と、佐山君は言った。
 しかし、ここに一つの不審は、その後に司令部に出入りする者が曾《かつ》て向田大尉の姿を見かけないことであった。大尉は病気で引籠っているのだと、司令部の人たちは説明していたが、なにぶんにも本人の姿がみえないということが諸人の疑
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