店の用を片付けて、佐山君は自分の下宿先へ帰った。
疲れている彼は、寝床へもぐり込むとすぐにぐっすりと寝入ってしまった。そうしてこの一夜のうちに、どこでどんなことが起っていたかをなんにも知らなかった。夜があけていつもの通りに出勤すると、どこで聞き出して来たのか、店員たちの間にはこんな奇怪な噂が伝えられた。
「向田大尉がゆうべ火薬庫のそばで殺されたそうだ。」
「いや、大尉じゃない。狐だそうだ。」
きのうの夕方の一条があるので、この話は人一倍に佐山君の耳に強くひびいた。彼はその事件の真相を確かめたいのと、ほかにも店の用事があるのとで、かたがた例よりは早く司令部へ出張すると、司令部の正門からちょうど向田大尉の出て来るのに出逢った。大尉はふだんよりも少し蒼ざめた顔をしていたが、佐山君に対してはやはり丁寧に挨拶して行き過ぎた。呼び止めて、きのうの釣りのことを訊いてみようかとも思ったが、場合が場合であるので、佐山君は遠慮しなければならなかった。
いずれにしても、向田大尉が健在であることは疑うまでもない。大尉が殺されたのではない、狐が殺されたのかも知れない。大尉と狐と、その間にどういう関係があるのか。佐山君はいよいよ好奇心にそそられて、足早に司令部の門をくぐった。店の用向きをまず済ませてしまって、それからだんだん聞いてみると、大尉殿の噂はみな知っていた。時節柄そんな噂を伝えると、それから又いろいろの間違いを生ずるというので、司令部では固く秘密を守るように言い渡したのであるが、問題が問題であるだけにその秘密が完全に防ぎ切れないらしく、将校たちはさすがに口をつぐんでいても、兵卒らは佐山君にみな打明けて話した。
「狐が向田大尉どのに化けたのを、哨兵《しょうへい》に殺されたのさ。」
佐山君はあっけに取られた。
二
司令部の門を出ると、佐山君と相《あい》前後して戸塚|特務曹長《とくむそうちょう》が出て行った。特務曹長とも平素から懇意にしているので、佐山君は一緒にあるきながら又訊いた。
「ほんとうですか。火薬庫の一件は……。」
「ほんとうです。」と、特務曹長は真面目にうなずいた。「わたしは大尉殿に化けているところも見ました。」
「狐が大尉殿に化けたのですか。」
「そうであります。司令部にかつぎ込んだ時には、たしかに大尉殿であったのです。それがいつの間にか狐に変ってしまったのです。」
「たしかに大尉殿であったのですか。」と、佐山君は念を押した。
「そうであります。わたしも確かに見ました。」
一方の大尉が無事である以上、殺された大尉殿は狐でなければならない。しかしそれがどうしても佐山君には信じられなかった。昔話ならば格別、実際に於いてそんな事実が決してあり得《う》べき筈がないと彼は思った。戸塚特務曹長はこれからその件に就いて火薬庫まで行くというので、佐山君も彼と一緒に行って現場の様子を見とどけ、あわせて昨夜の出来事の真相を知りたいと思って、かの川べりの丘の方へ肩をならべて歩き出した。
「で、いったいゆうべの事件というのはどうしたのですか。狐が大尉どのに化けて、何かいたずらでもしたのですか。」
「それはこういう訳です。」と、特務曹長は薄い口髭をひねりながら、重い口でぽつりぽつりと話し出した。「ゆうべ、いや今朝の一時ごろです。あの火薬庫の草むらの中にぼんやりと灯のかげが見えたのです。あの辺は灌木《かんぼく》やすすきが一面に生《お》い茂っている所で、その中から灯が見えたかと思ううちに、ひとりの人間が提灯を持って火薬庫の前へ近寄って来ました。哨兵《しょうへい》がよく見ると、それは向田大尉殿でありました。哨兵はむろん大尉殿の顔を識っています。ことに大尉殿は軍服を着て、司令部の提灯を持っているのですから、なんにも疑うところはないのであるが、軍隊の規律としてただ見逃がすわけには行かないので、哨兵は銃剣をかまえて『誰かッ』と声をかけたのです。けれども相手はなんにも返事をしない。哨兵は再び声をかけて『停まれッ』といったのですが、やはり停まらない。三度目に声をかけても、やはり黙っているので、哨兵はもう猶予するわけには行かなくなったのです。」
「でも、見す見す向田大尉殿だったのでしょう。」と、佐山君はさえぎるように言った。
「軍隊の規律ですから已むを得ません。」と、特務曹長はおごそかに答えた。「殊に火薬庫の歩哨《ほしょう》は重大の勤務であります。三度まで声をかけても答えない以上、それが見す見す向田大尉殿であっても打っちゃっては置かれません。哨兵は駈け寄って、その銃剣でひと突きに突き殺してしまったのです。そうして、その次第を報告すると、司令部の方でも大騒ぎになって、当直の将校たちもすぐに駈け付けてみると、死んでいるのは確かに向田大尉殿でありました。」
「あ
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