なたも現場へ出向かれたのですか。」と、佐山君は啄《くち》をいれた。
「いや、わたしは行きませんでした。しかしその死体を運び込んで来るのは見ました。大尉殿は軍服を着て、顔の上に軍帽が乗せてありました。そこで、まず大尉殿の自宅へ通知すると、大尉どのはちゃんと自宅に寝ているのです。大尉殿が無事に生きているというのを聞いて、みんなも又おどろいて再びその死体をあらためると、それはどうしても大尉殿に相違ないのです。そうして、たしかに大尉殿の軍服と軍帽を着けているのです。ただ、帯剣《たいけん》だけはなかったのです。そのうちに、ほんとうの大尉どのが司令部に出て来て、自分でも呆れている始末です。」
 この奇怪な出来事の説明をきかされながら、佐山君はあかるい秋の日の下をあるいているのであった。大空は青々と澄み切って、火薬庫の秘密をつつんだ雑木林の丘は、砂のように白く流れて行く雲の下に青黒く沈んでいた。特務曹長はひと息ついて又語り出した。
「なにしろ、大尉の服装をした人間が火薬庫の付近を徘徊《はいかい》していたのは事実で、しかも今は戦時であるから、問題はいよいよ重大になったのであります。で、その怪しい死体を一室にかつぎ込んで、今井副官殿と、安村中尉殿と、本人の向田大尉殿とが厳重に張番《はりばん》して、ともかくも夜の明けるのを待っていたのです。すると、不思議なことには、夜がだんだんに白《しら》んで来ると、その死体がいつの間にか狐に変ってしまったのです。軍服はやはりそのままで、軍帽を乗せられていた人間の顔が狐になっているのです。靴はどうなったのか判りません。彼が持っていたという司令部の提灯も、普通の白張《しらは》りの提灯に変っているのです。これにはみんなも又おどろかされて、大勢の人達を呼びあつめて立会いの上でよく検査すると、彼はどうしても人間でない、たしかに古狐であるということが判ったのです。その狐はわたしも見ました。由来、火薬庫の付近には古狐がたくさん棲んでいると伝えられているのですが、その狐が何かのいたずらをするつもりで、かえって哨兵に突き殺されたのだろうというのです。余り奇怪な話で、われわれには殆んど信じられないことですが、何をいうにも論より証拠で、そこに一匹の狐の死体が横たわっているのであるから仕方がない。どう考えても不思議なことであります。」
「実に不思議です。」と、佐山君も溜息《ためいき》をついた。ゆうべ逢った魚釣りの人もやはりその狐ではなかったかとも思われた。
 戸塚特務曹長が平素から非常にまじめな人物であることを佐山君はよく知っていた。口では信じられないと言いながらも、特務曹長は眼《ま》のあたりに見せ付けられたこの不思議を、あくまでも不思議の出来事として素直に承認するよりほかはないらしかった。話はこれでひとまず途切れて、二人は黙って丘の裾までゆき着いた。すすきや茅《かや》が一面に生い茂っている中に、ただひと筋の細い路が蛇のようにうねっているのを、二人はやはり黙って登って行った。頭の上からは枯れた木の葉が時々ひらひらと落ちて来た。
「大尉殿に化けた狐が殺されたのは、この辺だそうです。」
 特務曹長は指さして教えた。それは火薬庫の門前で、枯れたすすきが大勢の足あとに踏みにじられて倒れているほかには、なんにも新しい発見はなさそうであった。

     三

 特務曹長に別れて帰る途中も、佐山君はこの奇怪な事件の解決に苦しんでいた。どう考えても、そんな不思議がこの世の中にあるべき筈がなかった。しかし、どこの国でも戦争などの際にはとかくいろいろの不思議が伝えられるもので、現に戦死者の魂がわが家に戻って来たというような話が、この町でも幾度か伝えられている。こうした場合には狐が人間に化けたというような信じがたい話も、案外なんらの故障なしに諸人《しょにん》に受け入れられるものである。佐山君が店へ帰ってそれを報告すると、平素はなにかにつけて小《こ》理屈を言いたがる人たちまでが、ただ不思議そうにその話をきいているばかりで、正面からそれを言い破ろうとする者もなかった。
 いかに秘密を守ろうとしても、こういうことは自然に洩れやすいもので、火薬庫の門前に起った奇怪の出来事の噂はそれからそれへと町じゅうに拡がった。それには又いろいろの尾鰭《おひれ》をそえて言いふらすものもあるので、師団の方では、この際あらぬ噂を伝えられて、いよいよ諸人の疑惑を深くするのを懸念したのであろう、町の新聞記者らを呼び集めて、その事件の顛末《てんまつ》をいっさい発表した。それは佐山君が戸塚特務曹長から聞かされたものと殆んど大同|小異《しょうい》であった。諸新聞はその記事を大きく書いて、大尉に化けたというその狐の写真までも掲載したので、その噂にふたたび花が咲いた。
 それと同時に、また一種の
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