ているが、これも随分ひどい揺れ方で、市内に潰れ家も沢山あった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、殆《ほとん》ど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時|仰山《ぎょうさん》におどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものではあったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生れてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから上野へ出て、更に浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴したのであった。その以来、わたしに取っては地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
こういう私がなんの予覚もなしに
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