たくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、著るしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見出されなかった。番町方面の煙はまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分れているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持出して来た。ビールやサイダーの壜《びん》を運び出すのもあった。わたしの家からも梨を持出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々|齎《もた》らしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動はいくたびか繰返された。わたしは花むしろのうえに坐って、『地震加藤《じしんかとう》』の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電灯のつかない町は暗くなった。あたりがだんだん暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅にあぶられているのが鮮かにみえて、ときどきに凄まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへとつづいてただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰《あま》すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群のうちから若い人は一人起ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町《もとぞのちょう》方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村君で、その住居は土手三番町であるが、火先がほかへ外《そ》れたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢《かせい》はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所がまたさわがしくなって来て、火の手が再び熾《さかん》になったという。それでもまだまだと油断して、わ
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